2008年6月29日 (日)

美しく咲く菖蒲と人生

Dsc01485 (菖蒲)

先日小田原城へ行く機会があった。城の天守閣に向かって進むと、堀いっぱいの菖蒲が目に入る。菖蒲の花の美しさは自分で手をかけて育てているだけに身にしみて感ずる。水はあるかなどと目が行ってしまうが、土が直接見える。天然資源である水を大切にして、定時的に流すコントロールをしているのかと思う。必要にして且つ十分な手法をとっているのであろう。

 私の家の菖蒲は荒井氏のうちから貰った。育て方の基本を書いたものも一緒に貰ったので、それに従って育てれば素人でも毎年楽しめる。有難いことだ。その荒井氏から菖蒲を見に来ないかと電話があり家内と一緒に見に行く。大通りまで迎えに来てくれ一緒に歩きながら境川の土手に沿って歩くと、何とあじさいが見事に咲いている。近くの皆さんがやってくれているようだ。江戸時代にはこの近くに本陣があったと思う。由緒ある場所だが住んでいる人の心掛けが見事である。そんなことを考えていると、玄関前にきれいに咲いた菖蒲が目に入る。それを見て、ここが荒井氏の家だとすぐに感づいた。庭に入ると菖蒲がいちめんに咲き誇っている。

 今週もNHKの「プロフェショナル仕事の流儀」を見た。がん患者の専門看護師・田村恵子さんの仕事の流儀が出ている。今でこそ早期発見で心配無く生きられるようになった病気である。でもがんによる死亡率は高い。特に発見が遅れると大変である。治療の手立てがない状態になる。患者は迫りくる死への恐怖、心の痛みに耐えきれない。このような人にも田村さんは対話を通してその心をほぐしていってくれる。そして希望は必ず見つかるという。そのお手伝いをどこまでもどこまでもしていってくれている。尊い人だ。今という時を悔いなく生きる手助けをして下さる。

 あの世とこの世は一体であるという。般若波羅密多心経には「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」と同じような意味の言葉が繰り返し強調されている。目に見えるものと目に見えないものは一体になっている。目に見えるこの世も目に見えないあの世も混然一体であるという。目に見えるTVの画像は目に見えない電波と一体である。昔宗教の世界で教えられたことは現在科学で言われている。自分らしく現在を生き充実させ納得のある人生を終える。ここに間違いない人生のあり方を見ることができるのではないだろうか。

 菖蒲は花の美しさは勿論である。その葉には芯がある。あやめとの違いだ。家内は活けた菖蒲の葉の曲線が美しいという。言われてみれば何とも言えない美しさのある曲線である。中小企業の経営でも独自の美しさを出せるのは、自然と一体となって独自の生き方を発見し、地域で生きられる人たちであろうと考える。

                           松井義近

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2008年6月22日 (日)

茶師の打ち出す「合組(ゴウグミ)」

Dsc01417  (海に断崖が溶け込む)

 NHKプロフェショナル6月17日の茶師前田文男氏の放送を感慨深く見ていた。前田氏は若いころ茶の葉を仕入れて特質ある茶づくりを一所懸命やっていた。本人は立派にやっていたつもりであったが親から言われた、「お茶の本質が見えていない」と。本人は良くやっているつもりだから衝撃を受けたようである。さらに「いいところばかり集める必要はない」「買った茶葉をけなすな。よくして世の中に出すのだ」と。苦しい時間が5年間続いたが、結果的にはお茶を見る時間を与えてくれたという。ありがたいことだ。人は誰でも持っている弱い自分がある。その弱い自分に負けない自分になることが必要であった。

 茶の葉を市場で仕入れるには手で触って、目で見て、鼻で嗅いで見る。わからないとむやみに触って手ずれを起こし、お茶が変わってしまう難しさがある。中には葉の形は悪いが、手に取るとズッシリ重いものがある。その特質を生かしながら、味を落とす茶の茎を取り出し外さねばならない。これは企業でも人間でも同じことだと噛みしめる。

 前田氏は手軽に飲める100グラム1,000円のお茶を提供する。これが主力商品である。そのお茶は、「上品な“甘み”と、“強み”に加えて、“香り”で勝負する」。それを作るために各産地産の茶を混ぜ合わせる。静岡M産の上品な甘み、高知産の強み、それに静岡H産の香りで作り上げる。お茶の声に耳を澄ませて合組するのだ。火入れをし、香りの最も良い温度を探す。89度だ。

 茶ということで思い出されるのは、茶の湯である。子供のころ祖父は茶の湯をたしなんでいた。裏千家から貰ったという名前を持っていたが、別に庵があるわけではない。8畳の間と開放出来る押入れを利用してお茶をたてていた。私自身は飲んだことはなかったが、その所作が一つ一つ決まっているようで、型通りに進めているのが分かる。これが作法というものかと思った。茶づくりにも、たしなむ人にも研究された長い伝統がある。 

 特に茶の合組で最高のものを作り上げるプロセスを見て、小売業の業態作りのことを考えた。お茶は上品で甘味がなくてはならないし、飲んで強みを感じられるものが良い。そしてまとめの香りを出す。小売業の業態作りを縦横のマトリックスで考えれば、第1軸(縦軸)は「生活」である。軸の上は“普段(ケ)の生活”で、軸の下に“ハレの生活”(民俗学で祭り等特別の行事)として、それぞれ品揃えをする。普段の生活用は品揃えの広さを第1にし、ハレの生活用は品揃えの中心の深さを増す。第2軸(横軸)は“個人的な好み”である。右端が好みに合うものを探す店、これは距離が遠くてもよく、洗練された設備、描き出す演出、優れた接客サービスが必要である。軸の左方は好みが一般化したものを売る店であり、便利な立地、自由な品選び、気楽な雰囲気が大切である。これを個別に掘り下げねばならない。

                             松井義近

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2008年6月15日 (日)

三陸の旅

Dsc01410             (浄土ヶ浜)

 平泉の中尊寺へ行ったのは3回目である。最初は中学1年のときで、仙台で勤めていた叔父が連れてってくれた。それ以後藤原清衡、基衡、秀衡、泰衡の4代の関心は強くなった。2回目は小学校の高学年になった子供とその姉を連れて夏休みの社会見学に行っている。そして今回である。今回予約で参加を決めていた時、たまたまNHKの「その時歴史が動いた」で鎌倉幕府と奥州の藤原氏の地方政権を取り上げているのを見た。地方の時代の先駆けとして取り上げていたのである。旅行は始めて行く三陸海岸や本州最北端の地を見ようと申し込んでいたのである。初日に行ったのが平泉のせいもあったと思うが、今に残る平泉の歴史・文化に気を取られてしまった。

 平安時代、貴族の藤原氏が「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思えば」と栄華を極めていたそのあとに、源氏と平氏の武士が台頭してきたのは広く知られている。保元の乱で平清盛一族と双方に分かれた源氏が戦い、次の平治の乱で源義朝がやられ平氏の時代となり、頼朝は伊豆に流された。そして“平氏にあらずんば人にあらず”という時代になった。琵琶物語ではないが「驕る平氏は久しからず」で頼朝が兵をあげた。頼朝は参加武士に土地所有を保証して地方武士の時代へと持っていったのである。一方奥州では前九年の役で源頼義は出羽の清原氏の助けを得て安倍氏を滅ぼした。清衡の父は京都藤原氏の流れをくんでいるが陸奥に赴任し、安倍氏の娘と縁を組んでいた。その後清原氏に内乱がおき後三年の役となるが、源義家とともに戦った藤原清衡は亡くなった人々の霊を慰め、さらに仏の教えによる平和な社会を築こうと中尊寺を建立したとされる。二代基衡は毛越寺の造立を始め、三代秀衡はこれを完成させた。当時万を超える人口は地方都市のさきがけとして繁栄した。

平氏に勝利した頼朝は鎌倉に幕府を開いたが、京都と平泉に挟まれ対峙せねばならなかった。頼朝は平泉の藤原氏が落ちのびてきた義経をかくまったとして、奥州藤原氏を攻め滅ぼしてしまった。しかし平泉の文化的心の遺産は残った。この地を訪れた松尾芭蕉は金色堂を拝観し当時を偲んでいる。「さみだれの降り残してや光堂」、金色堂は金で光り輝いていたが、この地は金が産出していた。金売吉次はその経済力を背景に京に赴き取引をしていたのである。

三陸は陸前・陸中・陸奥の3国である。現在の岩手県は大部分が陸中である。バスガイドは言う。岩手県は四国がスッポリ入る大きさですと。盛岡を出たバスは東の海岸まで北上の山中を延々と走る。3時間以上走ったであろうか。やっと海岸に着いた。旅館の料理は海鮮料理が主である。魚がうまい。ほやの酢のもの、部屋で焼いて出すえび、あわびの踊り焼きは鮮度を目に訴える。土地にうまいものあり、その陰に地方の努力がある。やや南にある“浄土ヶ浜”、名前に恥じぬ感激を与えてくれる。北に走って三陸鉄道北リアス線、昭和59年4月1日開業したという。この線を地元の人が愛している。下安家川で同じ車両に乗っていた男性が誰に話すのか大きな声で鮭の養殖の話をしている。稚魚250万匹を放流する。稚魚の長さは4~5センチ、3年後この川に戻るのはその3%だという。みんな一所懸命生まれた土地を愛し頑張っている。陸奥の国を走るときガイドさんはいう。ここの稲の藁の乾かし方は「かまくら干し」で、藁が外側ですと。藁は加工したり、馬のえさにしたり質の低いコメより貴重だった。内がわもよく乾きますという。今はコメの品質も良くなったと思うが、土地には土地の味わいがある。

現在中国(中華民国)も発展しながら苦労しているようであるが、グローバル化した経済、この流れはもはや断ち切ることはできないと思われる。相互に利益を受けているのである。その中で他国と競争して生きていかねばならない。従来の仕事の改善も大切であるが、新しい仕事をどう創出するか、その根源を見つけなければならない。そのために国としての国際的専門分野、地域の特質を掴んだ国内的専門商品、地域内一般商品作りの各分野に分け、その制度構築をする必要があるのではないか。

                         松井義近

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2008年6月 8日 (日)

良くなって欲しい中小企業

Dsc01313  (遊園地のブランコ)

1.自然の風、ゆらぎの組織を

 日経ビジネス6月2日号に「ソニーの壁、ストリンガー改革」が載っている。かつて、ソニーのベータマックス方式とビクターを中心とするVHS方式の両方式で規格争いをしていた時、ソニーのベータ方式は技術的には明らかにベストの製品だった。しかしハリウッドはVHS方式を選んだ。今回の新世代DVDの規格競争、会長兼CEO(最高経営責任者)のストリンガーは「もしソニーが規格競争に敗れたら、メディアは『第2のベータマックス』という見出しが躍っていただろう。ソニーのブルーレイ方式が勝利出来たのは、ソニーの様々の部門が本気で力を合わせてくれたおかげだ」。ストリンガーは「バラバラだったソニーの北米部門を一つにまとめていった」。のである。さらに「世界のソニーが抱える問題は、米国に存在した問題と本質的に同じ。部門同士を隔てる壁を壊せば同じように成功できる」。という思いをもっていた。

 いま社長が亡くなった中小企業のことが頭にある。ここでは小規模ながらも、トップが四角四面の権限争いをするのでなく、内部的にやる気の出る組織にしなくてはならない。そのために何をなすべきか。相互の話し合いを行う、コミュニケーションの強化である。コミュニケーションは相手の話をよく聞くことから始まる。まず社内がまとまることが改革であり、人間がやる仕事の協力体制を作らねばならない。

2.冷静に本質を読んで断

 またソニーのテレビ部門は赤字が続いているという。「産業構造が水平分業に変化しているのに、ソニーの液晶テレビは垂直統合から変化しきれていなかったため、部品の種類が増えてコスト高につながった」(大和総研のシニアアナリスト三浦和晴)。先の中小企業も当面の経営目標は営業赤字を無くすことである。この会社は最も主要な外注先であるところの取引契約に問題があると思われる。そのためにまず決算書にある当該仕入商品の粗利益計算を明確にしなければならない。そして、原価低減を図るのか、値入の改善をするのか、仕入れ先を変えるのか、その他の改善を行い必要な結果を出す。これにより将来の経営が決まる。

3.自分は陰で相手が陽

 最後に、社長が亡くなったことで心理面で迷いが生じているのか。6月3日のNHKプロフェショナルを見ていた。音楽プロジュサー武部聡志氏は言われる。「アーティストの弱点が武器になる」。「仲間の強さを引き出すには自分の弱さを見せなければならない」。「弱くたっていいではないか。それが相手の長所を引き出すかもしれない」。これらの言葉を聞きながら今までにないショックを受けた。剛と剛のぶっつかり合いは相互に反発を招くだけである。相手を生かし、喜びをプラスするのが商売であり経営である。

                        松井義近

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2008年6月 1日 (日)

歴史と「広重」のビジュアライズ

Dsc01343 (魚河岸発祥の地)

 小さいカードの「広重」描く東海道53次、版画で楽しんでいた場所を訪ねてみることができた。まずはお江戸日本橋七つ立ち、午前4時の風景現場である。日本橋の橋の上は道路原標で知られている。標識を見たのは初めてだ。橋のそばに魚河岸があったという。河岸は河や入り江などの岸であるから、ここに船をつけて荷揚げしていたことになる。本能寺の変のとき、家康は堺の街にいた。急いで山道を横切って伊勢湾に出たが、その時世話になった漁師がいた。征夷大将軍になってその者に鮮魚を献じさせ、残ったものを売っても良いと販売を許し、その場所が大きくなったのが魚河岸であるという。今の魚河岸も狭くなり、移転の話が出ているが、大変な事業であり歴史の変遷をしのぶ。

 京橋、ここにも川があった。ここにあった京橋川は、今は暗渠になっているが、橋のそばには青果市場、最も流通量の多かった大根から通称「大根河岸」があったという。江戸時代の初めにはこの近くまでが海、その海を現実のビルの間に見る思いである。世の東西を問わず、都市は川の流域で発達してきた。物の運搬は水運に頼っていた。今でも重油は巨大タンカーで基地まで運ばれるが、時代は変わり海の風情はどこにもない京橋である。

 北品川・南品川と来ると東海道も昔の面影を感ずる。品川と言えば専らJR品川駅から降りた北側の高輪がイメージとして定着している。この近くにある御殿山、この名前は家康が淀君を迎えるための場所であったという解説である。宿場を離れた場所にある「鈴が森刑場」、八百屋お七が恋におぼれて火付けをし、さまざまな情がからんだ物語となるが、最後の極刑がここでの火あぶり、みんな顔をそむける。

 多摩川を渡った川崎は三代将軍家光時代に出来た新しい宿場だという。そのため以前からの宿場との競争となり苦労した。宿場は人足50人、馬50頭を常に置かねばならず、参勤交代の行列も6月・7月に集中し、繁閑の差が大きく費用の維持が大変である。そこで何をやったか。多摩川六郷の渡し賃を川崎側に認めてもらい活路を開きながら、飯盛り女500人で賑やかな場所としたという。いつの時代も発展のためには苦労がある。

神奈川の宿。よく利用する「神奈川地区センター」の前に「高札場」がある。何度か前を通ったが足を止めてみたことはなかった。高札は守るべき法度や掟を知らせるための施設という。字が読めない農民は庄屋から話を聞くしかなかったようだ。当時ハリスが来て神奈川の開港を迫り一時開港した神奈川、その時のアメリカ領事館が高台の本覚寺、青木橋からこの下を通り高台を東海道が通っていた。「広重」画く「神奈川、台の景」がある。ここには今でも数軒の料亭があるが、この裏は「袖が浦」と言われ、海が迫っていた様が描かれている。今行って低い土地の街を見ると横浜の中心地である。幕府は港を神奈川から東海道筋を離れた横浜としたが、「広重」の描いた地形から海であった場所を見るにつけ、横浜がいかに変わったかを目の当たりにし、しばし昔をビジュアライズ(visualize)してきた。

                              松井義近

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2008年5月25日 (日)

逞しく生きる、フード対策他

Dsc01311 (潮干狩り)

 暫くぶりにそば屋に行った。好きなそばを註文したが約10%値上げになっている。日本の小麦は約9割を輸入にしていて、この1年間でほぼ2倍に価格が上がった。こうした関係で店頭の価格も上がったものであろう。飲食店としては値段をあげたくはないと思っているはずである。お客の反応がすぐ出てくるからである。日本の国としては水田が270万haある。主食用のコメ需要はその6割程度で足りる。高い小麦の代わりにコメを代用しようと思うのは当然である。(日経08.04.27朝刊参考)主食用のコメより多量に実る種類のコメをつくり、味は劣るので飼料やその他製品に使うことになる。戦前も戦後の食糧難の時代もコメを粉にひき、団子にしたり、繭玉を作ったりしたが、戦前には自転車で売りにきた「玄米パンのほやほや」などを思い出す。これだけでは昔のままだ。料理を作る人も、経営コンサルタントも新用途の創造に努力せねばならないと思う。

 経済が停滞してくると、小売業等の需要も大きくはならない。売り上げも全体的には前年比大きく伸びることが難しくなる。大型店を作り規模の経済を図っても投資の回収が困難になる。消費の低迷傾向を受け、小売業も飲食業も小型店化して耐え抜かねばならない。このような時の対策をどう考えるか。ひとつにはショッピングセンター等のフードコート(その施設の軽飲食店を集めた区画)に入りセンターの力で集めた顧客に、ファーストチョイスの商品で戦い抜くことがある。もう一つは一般商店街にしても、ショッピングセンター等集合商業施設でも、かねて述べているように品揃えの「生活テーマ別専業化」を図り、顧客の便利さを果たすとともに、時代に即した体制を真剣に考えねばならない。もちろんサービス等を含めた情緒面と付加価値作りも忘れてはならないことである。

 二輪車を含む車の保有台数は今年2月まで三か月連続で前年比マイナスであるという。(日経08.05.22朝刊、春秋)景気は後退したままであり、特に中小企業は輸出による好景気の波にも乗れず苦しんできた。一方若者は以前より物を買わないという。ゴールデンウイークに横浜の八景島へ行った。駅を降りて海岸の見える道を歩いていると「横浜海の公園」がある。潮干狩りでアサリなどを採っている。人工の砂浜と聞くが大潮関係もあり、新聞には5万人の人出とある。砂浜は貝より人の方が多いのではないかと思った。かねてゴールデンウィークの不満は“混雑”であるが、そんなことは関係ない若い家族連れの楽しみの方向・姿がそこにある。

 今各国は原油高騰で悩んでいる。第1次オイルショックのときは1バーレル30ドルで日本中が大騒ぎした。今いくらか、130ドルである。まともな経済ではない。投機資金が自分の金儲けで値上がりしているとしか思えない。余剰マネーは原油・穀物などになだれ込んでいる。日経08.05.17朝刊大機小機で三角氏は述べている。「ギャンブルの場にするな」と題し「今、世界の金融界に必要なのは、工学ではなく、哲学である。(略)実物経済成長の基本は銭の単位で原価を低減し、社会を豊かにする技術やサービスを競う地道な価値創造にある。(略)」と。有限の物の世界で無限の富を追求すれば反動がある。今私たちは近代的管理により顧客の信頼に応えるしかないのか。   松井義近

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2008年5月18日 (日)

心を語る

Dsc01325 (白い花)

脳外科の専門医松本氏の話を聞く機会を得た。脳の話から始まり大きく脳梗塞と脳出血と二つあると極めて体系的に話す。病気について素人の私など自分が苦しんだ関係のことは分かるが断片的な知識である。同氏は同期生だから齢も同じくらいであり、臨床歴が多く、私たちが問題としていることも分かっているし、聞くほうの関心も高く皆の目が違う。熱心だ。そんな中でいわゆる認知症(痴呆)の問題となると、物忘れの自覚症状が皆あるから一層真剣である。然し単なる物忘れは加齢によるものであり、病気ではないといわれ半分は安心した顔である。アルツハイマーもその原因が血管性のものもあるし、脳の一部が委縮するもの、その他アルコール・鬱等原因がいろいろある。薬は進行を遅らせるものである。

 腫瘍の問題等話は多岐にわたっていたが、最後は「老い」について語る。どうすべきか6項目挙げていた。①身体機能の衰えを認める。②感性を磨く。③家庭の団らんにつとめ、役割を自覚する。④趣味を深め知識欲を持つ。⑤豊かな交友関係の維持。⑥身だしなみに注意である。みんななるほどと思う。なかでも「感性を磨く」はかねて私の関心が高く、彼は驚きも必要という。私自身は小売飲食サービス業等において、事業強化プログラム2編の第1に「情緒的顧客満足」を掲げて、お客様の感激・感動等を大切にしてきたが、医学的に見ても同様な考えを明らかにされ極めて意を強くした。(文責:松井)

 家に帰って来て探し物をしていた。そのうちにいつも見ている「その時歴史が動いた」が始まっていて、暫くして家内が呼んでくれた。あわててTVの前に行く。「日本人の心を守れ、岡倉天心・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)からの復興」である。岡倉天心は明治の初め文明開化一点張りの中で、仏像等日本の美、美しさを残さねばと苦労をする。これは単なる物ではなく、心の問題、人々の信仰であると、保存の努力を始める。私自身「事業強化プログラムーいかに業態を構築するかー」という支援内容を作っているが、最近何かしらひっかかりを感じていた。TVを見ながらフト感じた言葉がある。「心を語れ」である。そしてTVの最後に出てきた言葉を付け加えた。「ただの物体ではない」。この物体は仏像を指している。

 先日親戚の娘さんが亡くなった。ガンの病で52歳だ。お通夜にお坊さんの話があった。今日の式は逆縁ですと。お坊さん自身も娘さんの子供のころを知っていた。何年振りかで祭壇に飾られた写真を見るにつけても、本人も親もどんなに悲しい思いかを察している。かつて娘さんをお嫁にやった友人に「おめでとうございます」と挨拶したら、親の本心は少しもおめでたい気持ではないと教えてくれた。こういう気持は娘を実際に嫁がせた人でないと分からない。ましてや子供に先立たれた親の気持ちは察するにあまりがある。御会葬御礼に他と変わっているものが入っていた。亡くなった娘さんのことが幼いころから今日まで書いてある。本人は自分の財産はお友達だと言っている。葬儀もお友達でいっぱいである。悲しい父親は可愛かった娘さんのことを思っており、つらいことだが、子供が大事にしてきた学校友達には子供をいつまでも忘れないでほしかったに違いがない。辛いつらい日のせめてもの娘に対する願いであったのではないか。親の気持ちを考えて悲しい思いであった。

                            松井義近

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2008年5月11日 (日)

冨岡製糸場と絹産業遺産群2

(座繰り・・富岡製糸場資料より)

Dsc01290  もう10年以上前になろうか、NHKの「関東甲信越小さな旅」で富岡市を放映していた。テーマは「繭一つ慈しむまち」であり、繭を作るための桑の木を畑に植えて育て、良い桑の葉を蚕に食べさせる養蚕農家の姿を見ていた。私が子供のころは春蚕()、初秋蚕、晩秋蚕と3回飼っていたように思う。春蚕のときは去年の枝に出来た葉を枝ごと切って蚕にくれる。初秋蚕のときは新しい枝に出来た葉を下から積んで蚕にくれる。晩秋蚕のときはさらに上のほうに出来た桑の葉を摘んできて蚕に与えていた。場所によって4回飼っていたところもあったようだ。お蚕は「はいて」(ふ化)から「あがる」()まで4眠(脱皮)する。その間24時間に関係なく、朝から晩まで桑の葉を食べ続ける。桑の葉を食べている時はザーザーとすごい音がする。その世話を良くしないと蚕もいい繭を作らないようだ。

 子供のころ養蚕農家は「外れ」(よくない繭になる)てしまうこともあった。家ではよく「あたる」と聞き、子供心に何故何時もいい繭を作るのか不思議に思い、蚕を飼っていた祖母に聞いたことがある。いまでもおぼえているのは「お子様に対する愛情だよ」という。何が愛情なのかすぐには理解できなかった。考えてみると蚕が4眠の間は朝から晩まで、ということは夜に人が寝ている時間も桑の葉を食べ、桑を食べ尽くす。蚕は頭の上に葉っぱがないと下の葉はもう食べないから腹を空かしてしまうのである。こういう状態が繰り返されると蚕はいじけていい繭を作らないようだ。祖母の言葉の“お子様”というのは蚕のことである。子供や孫も可愛いが蚕にはそれ以上に愛情を注いでいたのだ。

 明治の初めに近代的製糸工場を富岡市に作ったのも、この地が養蚕が盛んで、良い繭がとれたことがある。また七日市の堰を流れていた綺麗な水が利用できることもあったようだ。さらに製糸場の土地が代官陣屋の場所で、手つかずのまま空いていて利用できたとのことである。私はこの付近を城町というのを疑問に思っていたが、この辺に理由があったのかと思う。

 世界遺産登録をした石見銀山の観光に行った。現地のガイドさんが説明してくれたが銀炭鉱の中は説明の空間が長くなりわからなかった。いろいろ説明を聞いたが、江戸時代銀を輸出し、見返りに絹などを輸入していた。もちろん他の物も輸入していたのである。中学時代の国史教科書には天照大神が冒頭に出てきて、耕作・養蚕・機織り・などを人民に教えてくれたと書いてあった。これは古事記からの記述であり、とやかく言うつもりはない。しかしそのような昔から養蚕が盛んであったけれど絹製品は輸入しなければならないとは、機織りのレベルの低さを表すものと改めて明治の初めを考えてしまった。

(碓氷めがね橋)

Dsc01302

 午後は妙義山の表山・裏山を左に見ながら、碓氷峠へと向かった。碓氷峠に鉄道を敷けば繭の産地である長野県・群馬県・埼玉県の物流が大きくよくなることは理解できる。しかし此処は急坂である。いろいろ研究した結果、千分の6あまりの傾斜をアブト式で通すことになったのはよく知られている。今は新幹線でアッという間に通過できるが、めがね橋等当時の施設の美しさと周りの山々の景色にスッカリ見とれてしまった。緑の山には白い山桜が咲いている。めがね橋は国道側から見るのが美しい。意識的に煉瓦の組み方が変えてあるという。よくあの当時ここまで気をつけて作ったものだと感心してしまった。

 養蚕が盛んになれば蚕種製造農家もできる。春蚕だけの時代から年3回以上の養蚕が可能になったのに、蚕種貯蔵施設ができたことがある。当時は天然の「荒船風穴」である。貯蔵能力100万枚を超える国内最大の保存施設であったという。この蚕種紙は下仁田までは上野(コウズケ)鉄道によって運ばれた。今は上信電気鉄道となっているが、明治の産業振興、生糸の生産向上に作られたものであった。蚕のことであるが“良いお子様をつくる”コツは今も共通のようだが、産業のスピードは上がるばかりである。 

                      松井義近

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2008年5月 4日 (日)

富岡製糸場と絹産業遺産群1

Dsc01275

(「まぶし」と繭)

 富岡製糸場等が世界遺産暫定リストに載ったことは聞いていた。自分の故郷であるから登録されればいいなと思っていたが最近は田舎に行く機会もめっきり減り、今回この遺産群に行き勉強する機会に恵まれた。朝早く新宿を出発して早々についたのが甘楽(カンラ)町の小幡(オバタ)である。この町には親戚があり、親の代理で年賀の挨拶に行ったことがある。行った先の家は大きい、大きいということは蚕を飼うための場所が大きいのであって、住む場所はその一部分である。このように家がだだっ広いのが養蚕地帯の農家である。蚕を飼う作業場が2階全体にあり蚕が大きくなると1階まで蚕が占める。小幡の町へ行き鮮明に覚えていたのは道の真ん中に堰があり奇麗な水が流れていることだった。この堰は家事にも使うが養蚕用の器具を洗うのにも使ったに相違ない。私の生家では鏑川まで行って洗っていた。

 ここに「甘楽社小幡組倉庫」がある。子供のころ郷土富岡の民謡ができた。「響くサイレン富岡製糸、糸の日本に最初の工場よ、競う甘楽社生糸で誇り、・・・」と歌っていた甘楽社の倉庫がここに残っていた。甘楽社の製糸工場は上信線富岡駅の北側にあり、協同組合の先駆的なものと言われていた。見学先の倉庫では案内のガイドさんはわざわざ“はきたて”(卵からかえったばかりの幼虫)の蚕を展示してくれ、みんな興味深々で喜んでくれた。昔、蚕のはきたての頃は温かい部屋を作って育てていたので、展示の蚕がかわいそうな気持であった。

 この土地は室町時代小幡氏が治めていた。江戸時代織田信長の次男信雄が二万石で移り七代続いたといわれる。途中で松平家に移ったとのこと。すぐとなりの町のことでも今まで知らなかった。この地の伝統ある養蚕農家も今は3軒しかやっていないとのこと。養蚕農家は輸入絹の安さに対抗できないし、他産業への転出が続いた。

 富岡市にある日本最初の官営製糸場・富岡製糸場へ行く。この工場は正面の門から東繭倉庫が見える。よく前を通り、中をのぞいていたが中に入ったことはない。今回初めてここから工場に入った。しかし初めて入った感覚はない。小学校の5年のころ、ここの工場長の息子がクラスにはいってきた。以後中学の初めまで一緒にキャッチボールをしていた。工場の北に専用の門があり大きな声で呼べば友達が潜り戸をあけて中に入れてくれる。広い場所でキャッチボールをして遊んでいたのである。しかし繰糸場の方には行ったことがない。今回初めて中の見学をすることができた。観光バスをどこで下すかと思っていたら少し離れた所にある上町(カミマチ)の通りである。バスの駐車場は別に作ってあるようだ。観光客が増えれば飲食店などすぐに売り上げが増えるであろうが、市も対応に忙しいと思う。

 この工場は明治5年10月に操業を始めた。文明開化・殖産興業で近代産業の育成を図ったことは分かる。しかし準備して操業を始めるまでずいぶん早い。ガイドさんがおおよそのことを話してくれる。世界の生糸の大輸出国である清国がアヘン戦争で生糸の輸出が激減した。ヨーロッパでは蚕の伝染病で蚕が死に、生糸も蚕種も極端に不足していた。そんな中で開港間もない日本の蚕糸類の需要が高まった。ところが当時それらの粗製や偽造あるいは良しからぬ商人の横行等目に余るものがあり、不信を買ってしまった。これは最近の餃子中毒事件を考えれば、早急の対応が必要であったことが分かる。品質の高い安心して買える生糸類を輸出せねばならない状態であり、富岡を選定し品質の高い生糸を作る工場を造ることとなった。

 造られた東の繭倉庫は長さが104.4m、幅12.3m、高さ14.8mある木骨レンガ造である。柱は30.3cm角の通し柱であるが、太い柱は妙義山の官林の木を切ったほか、中之条奥地の木を切り出し筏に組んで流して運んだとのことである。よくこれだけのものがあったと感心してしまう。そのほかレンガ、漆喰、屋根瓦、礎石等よくやったと思う。それにしてもなぜこんなに大きい倉庫が必要だったのか。当時明治の養蚕は年1回の春蚕(はるご)だけだったという。工場の操業には1年分の繭を買い入れねばならなかったのである。

 工女の募集にも苦労があった。フランス人が工女の生き血を取るというデマが飛び、なかなか応募する人がいなかったとのことである。近代的製糸技術を工女が覚え、全国に普及するために全国から集めた。特に士族の娘が多かった。繰糸工場は300台の釜があり、一人一台の仕事である。この人たちが各地に帰り指導的役目を果たした。官営製糸場の経営も官営~三井製糸~原製糸~片倉工業と推移し、20年前に操業を中止するころは一人で30台の器械を担当していたとのことである。この歴史を見ても操業開始当時の外部環境、困難を極めた開業の苦心、製品の品質管理、人材育成、労働生産性の問題、生産のグローバル化とあらゆる問題を考え実施せねばならない姿がここにもあった。

                          松井義近

Dsc01283(富岡製糸場正面)

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2008年4月27日 (日)

進化、セル生産、理(すじ)

Dsc00866 (新渡戸稲造胸像)

 合宿の講座を3人の講師で担当していた時である。寝る部屋は親しくしていたS氏と一緒であった。彼は横になるなり眠りだし大きないびきをかく。体重はトン単位と言われる人だからいびきもすさまじい。本人は気にして、普段泊まる旅館では別の部屋になっていたが、今回は同部屋。いびきに影響されて眠れない。ところが眠っている彼が突然息が止まるではないか。このまま息が止まるのかと心配してしばらく様子を見ていると、何と呼吸が戻る。結局一晩中そんなことを繰り返していた。

 先日4月13日、NHKスペシヤル「病の起源」を見ていた。あなたのいびきが死を招く、危険な睡眠時無呼吸症で樹木希林さんが担当。昔の人体の担当のときを思い出す人である。今回、人類の起源は約600万年前と言われる。少し前に500万年前と出ていたのが、もうその100万年も前まで実績が研究されたのかと、このみちを知らない私は驚く。その後の長い石器時代の石器、田舎へ行けば石器は簡単に見ることができた。そして美しくもない石とあまり興味も引かなかった。ところがこの石が現代の私たちに大きな影響を与えていたという。その石器を利用してものを刻んだり柔らかくして食べていたのが影響し、顎が発達しなかった。舌は丸くならないで口の後ろにそれる。これが無呼吸症候を起こすという。

 たかが石という道具が人類にこんなにも影響があると知りビックリである。そんなことを考えながら裏庭に出た。南天が群がって生えている。この南天は昔正月の飾りものの鉢を買ってきたもの。正月を過ぎても元気だったので、地に下ろしたものである。鉢の南天がこんなに大きくなり増えたのは大地で育ったからであろう。期間は短いが、その木も育つ環境により変化する。

 身にしみながら見たのがもう一つある。NHKTV第一の「プロフェショナル仕事の流儀」で、山田日登志氏の「よみがえれ赤字工場、これが伝説の再建屋だ、やる気を引き出す秘策」である。山田氏は大野耐一氏に入門したという。この方式は、今までの流れ作業でない生産方式で生産性をあげた。数年前トヨタの工場を見学する機会があった。車は流していたが数台ずつ流す小ロットであった。これなら受注生産に近いやり方と思った。TVで出てきたのは一人で仕上げる「セル生産」方式である。数人で担当し、多工程をやり、自分で考え改善する。人間は自分が向上することに生き甲斐があり、内部組織的にやる気もでる。もちろん仕事を改善し生産性をあげる苦労は尽きないが、喜びは生まれる。

 小売業の場合は、一般的に売り場面積は小さい。しかしやり方は考えられる。利便性からいえば大きい店舗の方が必要な商品を幅広く揃えやすい。そして電気代も広告費も経済的になる。しかし一般商店も品揃えは生活者の生活をテーマ別に絞れば顧客ニーズに合わせられる。さらにもっとも顧客が望む親しみや人のぬくもりというような点で差異が着けられる。もともと多面的な仕事を行い顧客の満足を図るのが第一線の小売業である。理(すじ)は同じものを感ずるのである。

                                松井義近

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2008年4月20日 (日)

熱気あるバレーボール

Dsc01261 (選手紹介) 

藤沢市の文化体育館で、V・チャレンジマッチを見ることができた。女子・男子プレミアリーグの下位チームとチャレンジリーグ上位の入れ替え戦である。4試合あったが時間の都合で全部見ることは出来なかった。スポーツと言えば若いころはもっぱら剣道で、バレーボールの経験はない。この競技で鮮烈に記憶に残っているのは東京オリンピック最後に行われた鬼の大松監督率いる女子バレー優勝戦の試合である。東洋の魔女たちと言われた人たちの試合に息をのんでみていた。魔女たちの拾って拾って拾いまくった姿が鮮烈に頭に残っている。その後バレーの競技も進化した。南氏が考案したといわれるクイック攻撃などがあるが、その南氏の息子さんが「大分三好」のチームにいるではないか。背も大きいのでよく目立つ。ご招待席の良いところで見ることができ目の前の躍動する体がみな凄い。

 「大分三好」と「FC東京」の練習が始まる。私たちの席までボールが飛んでくる。手にとって返そうとボールに触ると結構固い。そんなことを言うとみなさんに笑われるが、サッカーボールよりは滑らかか。選手がボールを打ち込むと火花が出るようなものを感じる。見る場所のせいか今までに感じない迫力がある。試合が始まると大分チームの監督は立ったり座ったり忙しい。チームが点を取ると手をたたいて喜ぶ。競技を冷静に見ている監督もいるが、この監督は一喜一憂しながら選手と一体でやっている感じである。一部リーグに上がれるかどうか、一方は残れるかの試合であり、両者とも熱が入っている。隣の席に大分から一緒に来たと思われる人がいる。黄色い声で大きな声援を飛ばす。「マイブロック一本」、声もタイミングも見事だ。背番号10番の選手はブロックもうまい。ポイントゲッターだ。選手たちはサーブを受ける前に合図を交わし、どう攻める相談しているが中々計画どおりにはいかない。平坦に攻めず、もっと攻撃に変化を持たせたらと思うが、実際は思ったようには運ばぬようだ。

 バレーは点から線へ、線から立体的に動かすという。これは自分でやってみないと理解できない。しかしまず個人が力を持たねばならないが、チームプレイはそれ以上に連携がうまくゆかねば個人の力も発揮できないし、勝てないと思う。考え方は組織論で分かる。経営的には「抑圧を解放するものは売れる」。脳の古い皮質に感ずるものがあるといわれ、

そこに楽しみがある。大分からチームと一緒に来た応援の女性は、一部リーグ入りを果たしチームと共に喜んだ。まさに心を開放して帰ったに相違ない。

                             松井義近

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2008年4月13日 (日)

自然の「ゆらぎ」のこだわり

Dsc01256_2          (外孫からのチューリップ)

前週の最後に次のように書いた。扇風機の風も自然の風に近いものに「ゆらぎ」の快適性がある。・・個々の店は多様な生活・ライフスタイルの一つを選び生活テーマ別に専業化し、顧客は相互の間に「ゆらぎ」を感じ・・(略)であった。今回は最近の出来事をこの視点で眺めてみる。

長い間室内に置いた観音竹は葉の色が悪くなる。温かくなって鉢を外へ出してみると根が下から出ているではないか。随分経つので土を取り換えねばと思う。苦労して鉢から出したら根っこでいっぱい、土も見えない。観音竹鉢植えは植木にとって不自然である。もっと自然が感じられるように手をかけ、自然のゆらぎが感じられるように育てたい。

近くの幼稚園の先生が定年退職した。そして子供から元気をもらっていたと言われる。確かにそうだ。家は孫達と2世帯住宅で暮らしている。私たち夫婦が友達と会って話をするとき、自然に「おじいちゃん」「おばあちゃん」といっている。友達は「あなた」「私」である。もう少し若い時は流石におばあちゃんと言われると抵抗を感じた家内も、最近は「家は何でも孫が中心の生活をしている」と主張する。世代間にはそれぞれにない固有のものがある。そこには理くつでない自然に近い快適性がある。

4月10日の日経朝刊にセブン&アイ・ホールディングス傘下のデニーズの記事が出ていた。2割強にあたる約130店を閉鎖する方針だという。デニーズについては関心をもって見ていた。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きありと平家物語に出ていたが、諸行:全てのもの、無常:常なしで移り変わる、と教えられてきた。一般に腹が減ったら食べる店が多い。このタイプの店は競争が激しく売上げが減少しがちであることは折に触れて述べてきた。一般論であるがファミリーレストランも最初は自分の家より楽しくって料理もおいしい店であった。最近は行っても楽しさを感ずる店ではない。店内・味・サービスに大きく資金を掛けなくても、何か違った「ゆらぎ」を作り変化のある所にすれば、そこには快さがでると思う。

日経4月9日朝刊「やさしい経済学―21世紀と文明」奥野卓司氏記事を読んだ。「パソコン、携帯電話自体は工業製品だから、それが行き渡ったというだけでは工業社会の延長にすぎない。」という。まさに我が意を得たりである。最後の方に「過剰な生産が社会的意味を喪失した時に、その社会は必ず情報社会と化す」とある。金がすべての社会は行きづまると思う。物も機能から生活等の機能を売ることが大切であり、さらに生活や心が豊かになるもの「文化」的なものへと進みたい。私たちが住む社会は、小さくとも意味ある存在として働き、自然の摂理に従った文化の香りのするコミュニティ(協働体)にこそ意味がある。

                   松井義近

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2008年4月 6日 (日)

桜と「ゆらぎ」

Dsc01249  (三島大社)

今年の桜は何時もより少し早めに咲きだした。近くの小学校の桜も3月末には開花した。孫の一人は既に中学生、それでも小学校入学のとき桜が咲いていた思い出があるようだ。今年の入学生も入学式まで桜の花が咲いているといいと言う。楽しい思い出は他の人にも味わってほしいと思うようだ。私の時も小学校入学のときは桜が咲いていた。2本の桜の木の間を歩いて教室に行ったことを覚えている。その木は今は校舎の新築で無くなっている。中学に入ったときの校庭の桜は一層素晴らしかった。こんな桜の花を見ながら、新学期に心を新たにしながら励んで来た。

 日本人は桜の花が好きなようである。数年前も京都御所一般公開の見学をかねて吉野山の桜を見に行った。10日過ぎだから少し遅いなと思いながらも、吉野山は奥もあり、下の方までそれぞれ千本桜があると聞くから、下が駄目なら上があるだろうと勝手に思って行った。しかし花は全て散った後だった。その後高遠の桜を見に行った時も、花が咲いていた後の香だけは残っていたが花はなかった。満開の桜には巡り合わず、桜の見物は近くで楽しむだけかと諦めていた。

 今年は伊豆半島の桜を見に行った。たまたま伊豆高原の3キロ続く桜のトンネルは満開であった。松崎の桜並木1,500本も満開である。塩ずけ桜葉はシェア70%で日本一と資料にのっている。川の堤に咲き誇るこの桜の利用なのかと思う。最後の圧巻は三島大社である。参道の桜、池に垂れ下がる枝垂れ桜は見応えがある。冬の寒さをしのぎ、温かくなるや一挙に咲き誇る何十本・何百本・何千本の桜、一個の花でなく一斉に咲く全体の美しさは見事な景観である。

 一方桜は、散り際の美しさが日本人に愛されるという。これが前の戦争中の特攻隊の人の心にあった。若くして国の守りのために逝った先輩や仲間たち、今思えば「もったいない」考えである。戦争中「桜に錨」の帽子の徽章、「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」で突っ込んだ人たちへの思いはいつも胸にある。戦後あの人たちがおればやるべきことは沢山あった。

話は移るが、もう十数年前フラクタル理論に興味を持った。自然現象は自己相似的であるという。今でも詳しいことは学んでいないが、フラクタルの概念は、1970年代中ごろブノワ・マンデルブロによって命名された幾何学的概念である。この自己相似的なものの中に「ゆらぎ」現象が広範に存在する。いわゆるフラクタルな現象であるという。扇風機の風も自然の風に近いものに「ゆらぎ」の快適性がある。生活や仕事の考えも、とにかく働いて働いて頑張ろうとやってきた日本、何でも皆一緒、同じようにやる考えが浸透した時代である。物質的豊かさが目について「ゆとり」という考えが出た。今は一律的「ゆとり」から生活や仕事の中に快感を味わう「ゆらぎ」の概念を取り入れたい。それぞれが自分のライフスタイルを持つ時代である。商業活動も広くグローバルに目を開き、一律的やり方から多様な業態作りに進むことが大切だと思う。個々の店は多様な生活・ライフスタイルの一つを選び、生活テーマ別に専業化し、顧客は相互の間に「ゆらぎ」を感じ、それを集合化(ショッピングセンター、商店街)すれば人が集まり、繁栄型集合業態になると考えている。         松井義近

      (参照:非線形科学 蔵本由紀著)

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2008年3月30日 (日)

実現への思索

Dsc01241  永年経営コンサルタントをやって来て失敗も多かった。なぜその会社はうまくいかなかったのかと考える。先方がこちらの言うことをやらなかったのか。そんなことはない、こちらの問題である。相手は立派な経営者である。少しばかり経営の勉強をした思い上がりの強い人間が何を言うのか。口には出さなくてもそう反発したくなることであろうと思う。コンサルタントは相手の欠点を見つけて、そこを徹底的に改善を図る。考えてみれば当然のことのように思う。しかし、相手にとってみればまずい点を厳しい言葉で聞くのは楽しいことではない。中小企業の経営者は会社と一体である。こちらの言い方によっては自分の身にしみることである。ましてや診断には相手がお金を払っているのである。お金を払っている人は一般的な言葉でいえばお客様である。だが中小企業診断士はもともと公共の診断をやるために生まれたので、お金を払うのは行政機関である。今は制度が改正され、国家試験に合格した民間の経営コンサルタントである。

お医者さんは人間の病気を治してくれる。特に外科的な手術は直してくれる先生に生命を預ける。お医者さんと同様、経営も破産の危険を改革せねばならない時がある。手術をして経営を再生させる。その様な時も含めて本当に経営を強化するためにどうあるべきか。健全な財務体質にすることは大切である。しかしその上に他と競争して企業が勝ち抜けるには、その持てるストロングス(強い点)を発見し、これをいかに延ばすかを考えねばならない。しかし人間は自分のことは自分で分かりにくい、これが普通のようだ。地域の発展も同じようなことがいえる。地域の持てるストロングスをいかに発見し伸ばすか。これにより他との差異化も進み、人々に認められる。人間の場合も、経営の場合も、地域の場合もこれを言う人がいなければならない。これを果たせるのが本当のコンサルタントであろう。そのためには経営コンサルタントも指導的立場にある人も、人間性を向上させ、技術的方法も磨かねばならない。私などがとやかく言える立場ではないが、これについて考え方とありかたを述べたのが「事業強化プログラム」である。

その中は「向上の三式」でまとめた。第一部理念と機会開発。第二部は事業分野ではA個店・B地域、第三部を人材面と大きく三つとした。経験的にいえば、行きづまった時に勉強し実際にやったのは「気功」であった。その考え方で、人材の中に三つのやり方を設定したのが行動特性1,2,3である。1、謙虚に学び志を立てる。浄化・感謝/傲慢・排他 2、ニーズ対応の得意技を磨く。調和・公平/エゴ・偏屈 3.志念エネルギーによる具現。生気・集中/邪気・散漫である。

技術的なことは本プログラムでは第二部で述べることになる。顧客に販売する人はどのように訓練するか。その中に「応酬話法」がある。反対処理の方法 ①直接法(yes おうむがえし法ともいう。②逆転法(but) 話をよく聞き「しかし、そうおっしゃいますが・・」と話す方式。別に話法の基本的なものとして「暗示的な話し方」がある。①肯定的暗示 「その通りです。だから・・」と進める。②否定的暗示 「いいえそんなことはございません。ピッタリです。」と一度否定し、ピッタリで結ぶ方法である。イェスバット法と同類である。イェスバット法は街づくりを担当している久保田弘氏が、最も使う方法と推薦していたが実際に担当しての結論であろう。暗示的な話し方にはこのほか直接暗示、間接的暗示、疑問暗示、逆暗示等の手法も出てくるがここでは省略する。いかにして企業をよくするかはすべての事業について共通の課題である。自分は正しいと思っても相手とよく話し合わねばならないが、スムーズに進めるのは永遠のテーマか。

                          松井義近

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2008年3月23日 (日)

事業強化におけるサービス

Dsc00904  (洞爺湖)

顧客の買い物行動を見ると、普段(ケ)の買い物はどこで買うか大体決まっている。ある程度高いものを買う時も行ってみるところは決まっているようである。店にとっては固定客になっている。すべての買い物がそうであるとは言えないが、お店の普段の努力が顧客への信頼感となって結びついているといえよう。これは顧客の方では買い物のニーズが生じたとき、その街のその店がファーストチョイス(最初に選ばれる)の店になっているのである。信頼を裏切るようなことがあったり、気に入ったものがなかったりすれば客は離れる。

 企業が事業を強化しようとする場合、核心は何だろうか。顧客が何か買うニーズが生じたときに、それに対してファーストチョイスにならねばならない。競争であり、選ばれる順序の低い方から振い落とされる。このためには業態構築をせねばならない。商業関係の診断・支援を50年近くやってきて、その柱を考えると次のようになった。業態構築の柱 1.情緒的顧客満足(マインド) 2.生活テーマ別専業化(市場) 3.構造的に付加価値を(マネジメント)。それぞれの中はそれぞれ3項目程度になるが、そのなかで企業への質問項目を一つだけ出してみる。1.地域で一番のサービス(商品以外)は何か。2.地域で一番の商品は何か。3.使命感に燃える組織・人材か。である。商品は同じような質・価格なら、何で差別化してお客に訴えるのか。これは商品を売らないお医者さんでも同じである。差別化してファーストチョイスになるサービスが必要である。

 「サービスする」とはお客様に満足していただく努力であり、自分の人間性を伝えることになる。事業は顧客と商品サービスを結びつけるものであり、お客が主体で商品サービスを買うものである。同じ売場、同じ商品を扱っていて、店長が変わると売上が違う。これはサービスが違うといえる。

  よいサービス=自分のつとめ×心づかい

(1)自分のつとめ

 サービスとは元来は自分の果たすべき勤めであり、これをいかに果たすかである。プロと言える人は他人よりも勉強し実地の経験をし、パターンを豊富に蓄えた人で、その道の一流の人である。その勤めを他よりも前に出る熱意で果たさねばならない。まず顔を覚え名前を覚えよう。商品知識とサービストークを身につけよう。熱意は使命感から始まり、なぜかという興味が引き出し、自分の知識が築きあげ、経験と未来の見通しにより信念となる。

(2)心づかい

 ある飲食店の社長が教えてくれました。「店員の対応はお客様に気配りが足りない。来られたお客様は自分が招待したお客と思ってやればもてなす心が出てくる」と。このような心構えの基本が大切である。一般的には感じの良い態度として、まず誠実、日常的に挨拶がキチンとでき、さらにスピードとスマイルが必要である。

(3)個別対応ができる

 これらの上にお客の心や好みが分かり、個別対応できるお客を作っていく。今日一人でいい