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2009年3月29日 (日)

「侍ジャパン」のキーワード

Dsc01644 (草野球)

 今週はWBC(ワールドベースボールクラシック)で第1回に続き連覇を果たしたニュースで日本中が沸いた。サンディエゴでの二次ラウンド、韓国に敗れ、敗者復活戦で再度キューバと対戦する。負けたらこのまま日本に帰らねばならない。緊張の中を立ち上がってくれた。キューバを破りドジャースタジアムの準決勝でアメリカと対戦、大リーグで投げている松坂選手が踏ん張りこれを乗り切る。

 決勝戦は因縁の対決ともいうべき韓国戦、対戦成績は一次ラウンドから2勝2敗の5度目である。日本は誰が投げるのだろうか。決勝戦の前に第1回優勝監督王さんから優勝トロフィーが納められる。王顧問は原監督と握手、そして韓国チームのコーチ、ダッグアウト前にいる足の悪い監督と握手。見ていていい感じの情景だと思った。日本の投手は楽天の岩隈選手である。前回は低めに投げて相手を〇点に抑えている。どうしてもやらねばならぬ用事があった私はスイッチを切ってTVの前を離れた。

 昼食は遅く1時頃になったか。気になるTVのスイッチを入れる。日本は2:1で勝っている。8回の表岩村選手の犠打で追加点を入れた。3:1だ。韓国も必死である。8回裏に1点を返す。岩隈投手は実によく投げた。7回2/3まで2失点で抑えてくれた。杉内投手も見事に役目を果たした。重圧と緊張の中、ダルビッシュ投手が登場、スピードのあるすごいボールを投げるがまだ若い。1点リードの9回裏一死から連続四ボール、手に汗を握るという言葉があるが胸がキーンと痛い。二死後に打たれて同点。後でTVに載っていた画像で日本人の姿は口をポカンとあけ目もうつろ、自分もそうだったかと思う。球場の観客数54,846人が行方を見守る。

 延長10回の表、イチロー選手の2点適時打がでる。日本中が歓声、拍手、興奮のるつぼとなった(報道)。イチロー選手はヒットが出ないで人知れず苦しんでいた。苦しさ、つらさ、心の痛み、本人の言葉でいえばこのヒットは「神が降りてきた」という。あの大打者は神の力で打てたヒットと謙虚であり、これが決勝点である。韓国の金監督はイチロー選手がバッターのとき、はっきり敬遠を指示すべきであったと悔やんでいた。TVを見ていた私も、1塁走者が2塁に盗塁したとき、イチロー選手は敬遠されると思った。10回の裏2アウト、ダルビッシュ投手は最後の打者と対峙、2ストライク、次に投げたボールは打者の打ったバットの先に見えた。3振、ゲームセット。

 日本は2回連続WBCに優勝の快挙を果たした。今、日本は苦しい状態にある。侍ジャパンの選手も監督もコーチもよく戦ってくれたと思う。困難に立ち向かっている我々に希望と勇気を与えてくれた。優勝式で貰ったトロフィーに背番号25、村田選手のユニフォームをかけた内川選手、村田選手はいい後輩を持って幸せだとその喜びをかみしめていた。

 たまたま26日「検索キーワード見つけ方講座」に参加した。後藤さんからのメールで知り、テーマに興味があった。時間は19時から21時、昼間働いている人を対象にしていると思うが、この時間に参加するのは珍しい。インターネット専門の言葉が出る。SEO(サーチ エンジン オプチマイゼーション)、テキストには「入力されたキーワードの検索結果で、広告以外に上位表示されるようにホームページを最適化すること」。とある。これをどう作るかという内容である。講座の説明の中でキーワードには、ビッグキーワードもあれば、ミドルキーワードもあり、スモールキーワードもある。スモールキーワードは特異性のある言葉で注目される。中小企業の育成を仕事としている私には、スモールキーワード、特異性のあるものも役立つという話はプラスになる。アメリカは何でも大きいのがいい文化である。日本の高度成長の時代はアメリカのまねで進んだ。今回WBCをTV観戦したが、日本はスモールボールで勝ったといわれる。小さくても美しさを求めそれを愛する日本人、単打を連ね、機動力を発揮し、日の丸を背負って、苦しくとも諦めない気力、正に侍力の発揮により優勝を獲得した。「侍ジャパン」がキーワードで勝ち抜いたWBCだと言えるのではないか。

                        松井義近

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2009年3月22日 (日)

中沢選手の気概

Dsc01813 《西郷さんの銅像》

(気の通じる人)

 中沢佑二選手のサッカー人生を見て勇気を与えられた。3月17日の「NHKプロフェショナル仕事の流儀」を見ていた。「見ている人を幸せにすることができて、楽しませることができて、その人を見て夢を持つことができる。そういう人がほんとのプロフェショナルなのかと思います」。中沢選手のこの言葉を私なりにその通り繰り返すと、正に小売・飲食業の姿になる。彼は横浜Fマリノスのディフェンダーで、身長1m82cm、31歳で酒は飲まない。そして照れ屋と来ている。歳も身長も違うけれど、どこか私と似ているなと思う。しかし彼はワールドカップの主将であり、監督と共に高い目標に向かって進んでいる人である。

(絶望的状況でも流れを変える)

 日本はかつて太平洋戦争に負けて焼け野原になった。食料も不足する中、皆で頑張って世界第2位の経済大国になった。その間苦しいけれど楽しいこともあり、夢もあり、やりがいのある幸せも感じながら進むことができた。しかし最近は不景気で企業は赤字、失業者は出る、1929年のような恐慌が起きるのではないかと戦々恐々としている。中沢選手を見ると、サッカーを始めたのは小学校6年、プロになるような人は5歳で始めないといけないといわれる。遅れた自分を取り返すために、3か所掛け持ちで練習し自分を鍛えた人である。また誰だって失敗することはある。難しい局面になり、不安で心配で、行き詰まりの中に入ってしまうことはある。中沢選手は、失点し絶望的な状況になっても、気迫あふれるプレーで勝利を目指し、悪い流れを断ち切る。

(サッカーも商売も相手の動きを見ながら進める)

 サッカーの守備をどうやるのか。口では難しいようである。彼は身体で組織的守備を見せてくれた。こちらにも相手がそばにいる。左に相手がボールをキープしており味方がついている。そのボールがどこに来るか。右・前・左を見ながらとっさに判断し動いてボールを奪う。これを瞬時にする。これは商売でお客の動向を予測しながら商品とサービスを考え、顧客に明日の暮らしを提示し夢と希望を持たせる、苦労しながらやっている姿と同じではないか。

(明るい未来に変えられる)

 経営者の話を聞いても、あと一歩、あと一つを大切にし、勝利への道を歩いてきている。プロの中沢選手も人の何倍も努力し、世界を相手に活躍している。私はこの人にひかれ教えられ勇気を与えてもらった。「未来は変えられる」といわれる。不景気でも明るい未来を作らねばならない。

                     松井義近

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2009年3月15日 (日)

試練は繰り返される・・恐慌に至る人間の弱み

Dsc01904 (横浜のお台場模型)

(目に止まった本)

 3月7日(土)たまたま東京で会合があった。初めての場所なので会議に遅れぬよう早めに家を出た。受付までに時間があり近所の本屋に寄る。すぐに目についたのが浜矩子著「グローバル恐慌―金融暴走時代の果てに」である。現在同志社大学院ビジネス研究科教授でマクロ経済分析、国際経済を専攻しておられる。断片的に見てきた最近の状況を、よく描き出して読ませてくれた。以下感想と共に概略を記したい。

(利益最大目標の企業)

 恐慌とは「恐れ慌てること」であるが、経済用語としては「景気の循環過程における最悪の経済状態。過剰生産に基づく資本主義的固有の矛盾が爆発し、価格の暴落、失業の増大、破産、銀行の取り付けなどが起きる現象」である。「過剰生産に基づく資本主義的固有の矛盾」が出る。ひたすら利益最大化を求めて生産を拡大する供給側と、そうして造り出されたモノを吸収する能力におのずと限界がある需要側との間に生じるミスマッチである。つまり利益最大を求める方と買うほうではどこかで合わなくなる。これが恐慌であり、何時か起きる。

(ドル金交換停止)

 1971年(昭和46年)815日アメリカはドルの金交換を停止した。所謂ニクソンショックである。これは金融自由化に向けてパンドラの箱の蓋が開いたときといわれる。(パンドラの箱は最高神ゼウスがすべての悪と災いを封じ込めて、人間界に行くパンドラに持たせた箱である。)金の裏付けから解放されれば、安心してドルを増刷し経済を膨張させることができるようになる。このためアメリカは財政膨張による需要創出に邁進し、70年代末には二桁インフレ、短期市場金利も二桁レベルが当たり前になった。

(ゼロ金利と債権の証券化)

 日本では長期にわたるゼロ金利政策と量的緩和措置が行われ、海外ではタダ同然の金利負担で資金を調達し、これを外貨に換えて運用していた。世界的金余り現象である。「投資しなきゃバカ」という風潮になって行った。そんな中で債権の証券化という手法が考案された。住宅ローン再建を担保にした証券で売り出したのである。2008.9.15グローバル恐慌に向けて地獄の扉が開いたのである。低金利の日本の資金等が世界的カネあまりを起こし、今回の危機の遠因ではないかと浜教授はみておられる。

(合成の誤謬)

 恐慌時自分だけが生き延びられる一縷(いちる)の望みがあれば、人はどうしても抜け駆けの道を選んでしまう。浜教授は合成の誤謬といわれる。一人にとって正しい行動が全員にとっても正しい行動とは限らない。例えばアイルランド一国にとって、預金全額保護は危機迫る中では合理的選択だ。だがイギリスなど他の国々が預金流出に見舞われる。全員にとってはアイルランドの選択は誠に不合理なものである。またここの金融ショックはあっという間にめぐりめぐって日本の地方の企業や投資信託保者に波及してくる。

(ドルと円)

 ドルについては2月22日の「ブロック作り」ですでに述べたように国際基軸通貨として信任が低くなってきた。危機の遠因をなした「円」はいわば「隠れ基軸通貨」となっていた。

                          文責 松井義近

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2009年3月 8日 (日)

二度の世界恐慌・・A、バランスある知性

(Dsc01911_2 宥座(ゆうざ)の器)

 NHKの「その時歴史が動いた・・世界恐慌はなぜ起きた」(09.3.4 2200~)をみた。去年の9月以降この関連の放送は多い。失われた10年の時に、この関連や1929年前後の状況を表した本などを探したが身近にはなかった。やはりその場その時にならないと人間は真剣に考えないのであろう。二度の世界恐慌前後から求められるものは何なのだろうか。

 第1次世界大戦は1914年(大正3年)に始まった。日本も英・仏側で大戦に参加した。このときの戦争は物資消耗の甚だしい総力戦である。日本は直接の戦争被害もなく必要な物資を生産し供給し、多くの利益を得ていた。国内の景気も良く、子供のころ見た歴史雑誌に、料理屋の帰りに下駄を捜すために、お札に火をつけて探した成金の人が出ていて、そのころの状況を察することができた。軍拡競争を防ぐために1922年ワシントンで条約をむすんだり、1923年(大正12年)関東大震災で、日本はつぶれるのではないかと心配したり、幻の経済は後退した。一方アメリカは大戦勝利後富の集中に溺れていった。クレジットカードによる信用拡大は自動車の急速拡大をもたらし、今買って後で支払う快適な生活が続いた。リスクを無視して節度を失い、一かく千金をつかむ風潮が続いたのである。

 1929年9月には英国中央銀行は金利を引き上げた。アメリカに投資されていた資金はイギリスへと移動を始めていた。1024日(木)ウオール街の証券市場では10時開店とともに株価はジリジリさがっていたが、その直後株は大暴落を始めた。銀行協会の株買いも一般の人々には情報も届かず、最初の日で30億ドル下がったという。後に暗黒の木曜日といわれる。1300以上の銀行が閉鎖され、世界恐慌が始まった。米国は輸入関税を引き上げ、国内保護を図り、日本の重要輸出産業の生糸は大打撃を受ける。日本議会で片岡蔵相は渡辺銀行が破産したと発言。実際は資金の手当てはついていたが蔵相の耳には入っていなかったのである。渡辺銀行は取り付け騒ぎにかかり破綻した。銀行は1か月で37行が休業に追い込まれ、地方は女性哀史が始まる悲惨を続けた。

 1931年(昭和6年)事態を立て直しするために当時の軍は旧満州に進出、止まることを知らずさらに中国に侵入した。この流れは太平洋戦争へと突っ走っていった。期待を抱いて組閣した近衛総理大臣も押し切られてしまったと見える。太平洋戦争に負けて、本州・四国・九州・北海道の中で日本人は生きてゆかねばならない。食糧を買うにも、石油を買うにもドルが必要である。焼け野原に家を立て、少しづつ工場を作りながら日本中の人が働いた。景気の波は受けながらも高度成長を果たして行った。そのあとは経済停滞の失われた10年である。アメリカの経済は大量生産大量販売を続けた。後にはこれを続けるために金融手法を開発し、サブプライムローンの証券化商品を作り、リスクが隠されたまま世界に販売されていったのである。2008.8.15日リーマンブラザーズは不良債権で資金繰りに詰まり破産した。

 日経09.3.4朝刊によれば「公的資本注入は世界で100兆円に迫る」と1面に出ている。公的資金注入を受けた日米欧の主な金融機関は米国=74兆円、欧州=16兆円、日本=注入枠12兆円で百兆円にせまっている。さらに膨らむ公算が大きいという。行き過ぎの是正には金がかかる。

 3月4日藤沢市産業センターで「湘南産品ブランド化フォーラム」があった。事例発表②で「漬物道場から生まれた完熟梅の逸品~おばあちゃんの知恵とブランド化~」に興味を持った。講師は(有)寿屋漬物道場の代表取締役横尾昭男氏である。話の中で「宥座(ゆうざ)の器について」現物で器の中に水を入れ実演しながらお話があった。「空きのときは傾き、ほどよく水を入れると正しく水平を保ち、水をいっぱい入れるとひっくり返る」という戒めの言葉であった。(『荀子』宥座編参照) まさに人々の考え・行き過ぎた行動から起こる結果の戒めである。第一次世界大戦後1929からの株大暴落・世界恐慌、そして第二次大戦後の2008年からの同様な状態を見て、真剣に対策を考えねばならない問題と考える。「ザミドルコースイズザベスト(The middle course is the best) 」、中学で英語の先生が何回も何回も繰り返し読んだ言葉である。

                        松井義近

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2009年3月 1日 (日)

原子爆弾の悪夢と光明

Dsc01726 (元気に遊ぶ子供たち)

 太平洋戦争は若い人達には歴史上のこと、私にとってはつい先日の出来事という感じである。中学校の歴史の本を見ると、「一瞬にして廃きょとなった広島」(1945年105

)という広島の爆心地の、草まで焼き尽くした生々しい姿が写されている。(p.194~195)

 当時私は広島県江田島にある海軍兵学校の生徒であった。原子爆弾の投下されたその日には、講堂(教室)でダットサンのエンジンの勉強をしていた。4サイクルエンジンは吸入・圧縮・爆発・排気と動く。これは後に自動車運転免許の構造試験のとき役立った内容である。教室は一つの机に二人で坐っている所である。たまたま隣の者がウトウト居眠りを始めた。居眠りをすれば講義の内容が分からなくなるから、木でできた机上のネームブロックでコツンとやってもいいことになっている。いつもは私のほうがやられることが多いので今日はチャンスと思ったその瞬間である。窓の外でピカッと光った(午前8時15分頃)。写真を撮るときフラッシュにマグネシュウムをたいていたが、瞬間的に同じような光り方だと感じた。友達は目を覚ました。そして「今何か光ったろう、何だ」と小声でいう。教室の外には高圧の電線が何本もある。原子爆弾などということは全く考えなかったから、「電線が空中でショートしたんだろう」とこたえると、そのときドカンと大きな爆風が窓を揺るがす。友達は素早く机の下に潜る。私もそのまねで潜る。間もなく「空襲である。全員退避せよ」と放送がある。すべてそのままにして、山に掘ってある横穴に向かって走り出した。途中まで行くと放送があり「待て、戻れ」という。我々は立ち止った。やれやれという気持ちで空を見ると薄暗い煙がもくもく立ち上がっているではないか。みんな何だろうと首をかしげる。群馬県西部生まれの私は、浅間山の爆発したときの煙とよく似ているなと思ったが、あの辺に火山はない。ある者はいう。火薬庫が爆発したのではないかと。なにもわからなかったが、しばらくして原子爆弾という言葉が耳に入ってきた。

 物理の教官が広島の視察に行ってきた。朝の整列時に言う。「あれは原子爆弾ではない。1トン爆弾を空中で爆発させればあのくらいの威力はでる」と。我々は関係する知識がないからそんなことかと思うしかない。そのうちに原子爆弾対策が出てきた。肌が出ていると火傷する。今後空襲のときは白い風呂敷をかぶって退避せよと。私は考えた。B29が爆弾を落とすのだが、こちらの高射砲は弾がB29に届かないようだ。日本の飛行機はすでに壊滅状態であった。空襲のとき白い風呂敷をかぶるのはいいが、これで勝てるだろうかと、口に出せない心配を秘めてしまった。

 その後長崎にも原爆、ソ連が参戦と続き8月15日終戦となった。その日は何となく普段と違っていた。私たちのクラスは、午前の最後の勉強が軍事学である。教官は我々の部監事、場所は当直将校がいる官舎の前の芝生に座って行われていた。その時の内容ははっきり覚えていない。今頭にあるのは「七分三分のかねあい」という、海戦の結果の統計から割り出した教訓である。時間中当直下士官が来て当直将校をしている部監事に何か報告。間もなく授業を中止して千代田艦橋前に集まれという指示である。待つこと暫らくでラジオ放送があったが、雑音で内容は分からない。食事を終って13時、副校長から訓示があった。「日本はポツダム宣言を受諾した。今後は軽挙妄動を戒め、科学の勉強に邁進せよ」と。何もすることもなく17日になった。1号生徒(3年生)はある大きい講堂に集合せよといわれる。生徒隊監事から「戦争敗因」の話である。①兵器:電波探知機、水中測定兵器、飛行機、原子爆弾 ②総力戦観念に不足 ③人的方面の三つをあげた。今回ここで取り上げたのは原子爆弾である。さらに、私たちが入校したときは井上成美校長であった。終戦時海軍次官になった人である。戦争の大勢は分かっていた人と思う。短期間に生徒に必要な教育をしなければならないとき、生徒には英語の教育は必要であると英語の教育をしてくれた。生徒は基礎的勉強をするのが任務であると、第一線から戻った教官に戦争の話を禁止した。このような教育を受けて、東日本を中心とした生徒は8月23日宇品港経由で焼け野原の広島に入り、バラック建ての広島駅から貨車に乗って東京に向かった。

 その後の調べでB29は1万メートル上空から爆弾を落とし、地上500~600mで爆発させた。爆発点の温度は摂氏100万度を超えるという。熱で家の瓦は溶けたのでその付近は地上で2000~4000度になる。木造家屋は燃えあった。当時中学校(旧制5年)の上級生は勤労動員で広島の軍需工場で働き、下級生も家屋の間引きの片づけをやっていた。中心部にいた人たちは爆風で叩きつけられ、熱で火傷を負っている。放射能の影響は何年も続いて体を痛めた。同じ分隊にいたT君の母は住まいが爆心に近いという。母との連絡は途絶えていた。帰郷の日には広島をあきらめ、知人を頼って私たちと一緒のグループであった。宇品港を上がるとT君の母がいるではないか。兵学校の生徒が帰郷を始めたのを聞き、毎日桟橋で待っていたのである。T君の顔は笑顔であふれた。そして生きていてくれた母と抱き合った。母は原始爆弾投下のときまだ防空壕の中にいたのである。

 今思うに日本は石油は取れない、広い農地はなく食糧自給率も低い。1億の人たちが生きてゆくには、石油も食料もその他多くを輸入しなければならない。輸入するためにはドルが必要であった。それを自動車が、電気製品が、建設の事業等々が輸出で稼いだ。多くの人たちが「科学の勉強に邁進した」ことが寄与したに違いないと思っている。そして平和を続けることができたのであるが、今また世界中の経済が苦しい時に来ている。競争はあっても平和に暮らせるよう、若い人たちに期待するや切である。

                         松 井 義 近

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