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2008年11月30日 (日)

まちかど音楽祭と隣の芝生

Dsc01787 (今年の音楽祭グランプリー「フニータニー」

 湘南藤沢まちかど音楽祭2008を初めて見に行くことができた。入場券の予約が手に入って、開場時間前に会場に着く。行ってみると朝10時に並んで入場整理券を手に入れたグループが大勢並んでいる。私たち入場券を持っている人は別の列に並ぶ。もう一つ当日券を求める列もある。ならんでいる人たちを見て、この人達はどんな人達なのだろうかと直ぐに考えてしまう。10時グループは舞台の一番近いところに入りたい人であることはわかる。応援団だろうと思う。時間になり一通りの挨拶が終わって、演奏が始まってもみな静かである。ここは発表の場、マナーがいい。

 このファイナルステージに選ばれた7組は、その前のセカンドステージが市内7か所の会場で行われ、そこで選抜された代表の7組が今回集まりグランプリーを争う。それぞれの会場は市の実行委員会に申し込んだ124組の申込者の中からテープで審査があり、パスした24組である。その中から選ばれたことは大変な競走であった。熱が入っているのもわかる。たまたまセカンドステージの会場になった商店街も負けてはいない。応援に熱が入る。皆商店街の名前にかけてグランプリーを狙う。

 音楽が始まる。時々音が大きくなって体に響く。ガーンと胸に迫って痛みを感ずるほどである。私の座った椅子のそばでライトも音もコントロールされている。出場チームには高校生のグループ2組、男性グループと女性グループもある。一方プロではないかと思うようなグループもある。このようなコンペには審査員が見ている。この審査員にはあまり格式ばった人はいない。音楽のプロなのだろうなと思う。あまり肩肘張ってやっている感じも見られないし、話をしたこともないのに親しみを感ずる。音楽祭に相応しい雰囲気を醸し出している。

 厳しい戦争の時代に育った我々と今の若い人達との間にはジェネレーションギャップを感じてしまう。昔の音楽の時間は唱歌である。楽器の演奏はない。今ほとんどの人は演歌が好きである。それはそれでいい。その歌を作る人、曲を作る人、歌う人みな違う。音楽祭に出ている人、シンガーソングライターはこれを一人でやる。自分で作詞し、自分で曲をそえ、自分で演奏し、歌っている。湘南藤沢で行う音楽祭だ。湘南のムードを打ち出してほしいのは審査基準で言われるまでもない。参加した顧客の方にも投票権があった。投票は二つのグループに○をつけて下さいという。なるほどなと思う。応援団としては地元選出に○をつけるだろう。するともう一つの方の○に意味がある。

 投票し審査の時間が来る。その間去年のグランプリー「サマーソフト」が出演する。シティポップサウンドを持ち味として、心地よいリズムを軽快に演出する。サマーソフトの演奏が始まるや、前の方にいた一角がにぎやかになる。両手をあげリズムに合わせて手を高くあげ手をたたきながら共鳴している。ギャルの一群はこの時間を待って朝早く並んで整理券を取っていたのだ。ところで、明大の清水教授が元気だったころメキシコへ行かれた。帰ってこられて生き方を変えねばならぬとおっしゃる。ラテン系の明るい生き方に感じいるものがあったようである。

 「サマーソフト」のホームは茅ヶ崎のようだ。茅ヶ崎と言えば加山雄三の歌が浮かぶ。開放的でおおらかである。今年東海道の旅で食べた昼食の店が茅ヶ崎であった。料理する魚加工場も開発途上、食べる席も狭い。けれど受ける全体の雰囲気に活力がある。江の島に行ったとき参道の店でお客が行列して買っている店があった。茅ヶ崎で創作した湘南名物「江の島タコせんべい」である。最近藤沢市内の量販店ギフト売場で陳列されていた。箱ものでない物もあり買って食べてみたがいける。茅ヶ崎からは江の島は彼方に見えるだけである。茅ヶ崎には小田原のような城もない。遊行寺のようなお寺もない。東海道五十三次の宿場でもなかった。けれど元気さを感ずるのは「隣の芝生は青く見えます」ことでもないだろう。今回の音楽祭は歌を作って演奏するものが多い。湘南らしい明るさ、心も輝く世界を基調に、湘南のムードを広く響かせられる。私の「経営の活性化プログラム」の業態構築第1条は「情緒的顧客満足(マインド)」である。なにより先にお客の情緒に訴えられるものが顧客満足になり売り上げにも結びつく。ミュージッシャン、これからは「君の歌があるから心から楽しい」といわれるようになって欲しい。隣の芝生も商店街もともに進もう。

                      松井義近

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2008年11月23日 (日)

米粉製品は日本人に合う

Dsc01756(白旗神社の湯立て神楽)

 戦後、製粉機メーカーにいた。製粉機は全国代理店等に売った。食糧難の時代である、農家は作った米を精米したり、小麦を製粉(うどん粉等)したり、大麦を押麦にするために精米所に持ってくる。従って地域の精米所では製粉機とともに精米機、精麦機、押麦機等とモーター、伝導用品(プーリー・ベルト・ベアリング等)をまとめて売っていた。時々あるのが小正月や十五夜に使う米の団子用製粉である。1俵まとめて粉にすることは、まずないから、臨時に小型専用製粉機をもうけて米粉にひいていた。時には別事業体に高速粉砕機を売っていた。

 日本の食糧自給率はエネルギーで40%といわれている。先般も石油が暴騰し、代替するトウモロコシ(米)や大豆(ブラジル)が高騰し大きな問題として騒がれた。1バーレル170ドルに達する報道もあった。第1次オイルショック(昭和38年10月末~)には30ドルになって大騒ぎをしている。同じようなことが繰り返されているのである。しかし日本の農地は相当休耕になっていると聞いている。

 子供の頃「玄米パンのほやほや」と言いながら街の中を自転車で売り歩いていた人がいた。たまに買って食べたがおいしかった記憶がある。香ばしいし、菓子を含めてコメとその製品は好きだった。今は家事の工場生産化が進んだが、米を使った新しい食べ物が多く出ている。多くは主婦による新商品家庭生産である。

 輸入小麦によるパンも玄米パンもその作り方を私は知らない。今回ふと新聞を見ると「特集自分のお米で米粉」現代農業12月号の広告が目に止まった。駅まで行って雑誌を買ってきた。興味のあるところを読んでみると、“輸入小麦よりコメ作りで”“健康には玄米パンを”とか、工夫して作ったものがたくさん載っている。大塚せつ子さんは<白神こだま酵母で作る100%米粉パンの野菜種法>で、見た目はパン、でも噛めば噛むほどご飯と同じく飽きない甘さとおいしさ、これぞ日本のパンの味、と言われる。小出静枝さんは<炒りヌカ入り米粉パン>で炒った米ヌカをパンにまぜて焼くと、便秘解消、やせ、血がきれいになったと奇跡のパンを紹介されている。ただ一般流通している米を使うと高くなるので、中米・くず米等の事例がでている。しかし米粉パンは小麦パンより高くても、味わいや健康面等でよく売れているようだ。

 星陽子さんの<米粉100%パンができた>。先祖が開墾した田んぼ、区画整理された田んぼが減反で今は雑木が生えた荒地、あげくの果てに米価の下落、米を作るのをやめ始めた。これでいいのか。パン・焼きそば・ラーメン・カップ麺、米を食べなくなったから高血圧、高血糖、高コレストロールとなやまなければならないのでは。・・・小さい頃、石臼で米を粉にしてだんごやうどんにしていた。新しく家庭用製粉機を買い、だんごに、天ぷら粉、お好み焼き粉もすべて米粉で作ったが、パンだけはうまく膨らまない。四苦八苦していた時、友人からもらったのが米粉100%のパンと微粉の米粉、星さんの製粉機では微粉は無理だった。わが家は海苔屋なので、最近米粉パンをちぎって海苔をまいて食べる「海苔パン」にはまっている。(以上要旨)やってみたくなる内容である。

 スーパ-マーケットにも「お豆と雑穀、お米入りロールパン」が並んでいる。もっちり、しっとりしたお米の味わいが出ていて口に合う。これからも食料品の高騰、食の安全問題と健康、多くの問題は出てくる。利益だけ最高になればよいという思想の人もいるが、今はすべてを自由勝手にというわけにはいかなくなっている。このような中で、コメは弥生時代以来水田が開発され、生産性も向上した。この良質のコメは最も慣れた食べ物として親しみ、体の構造もそれに合っているように思う。我々は今回のコメのようにいいところ美点を大いに生かし、ともに働き、コミュニティの向上に尽くしたい。

                        松井義近

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2008年11月16日 (日)

メダカとの出会い

(メダカの棲息分布)Dsc01727

 群馬では鏑川の水がぬくまる頃、蚕を飼う準備が始まる。平らな竹かごに敷くむしろを川で洗うのが昔の年中行事である。水の流れに入ってむしろを洗う祖父のそばで、水たまりで泳いでいるメダカを追って遊んでいた。川辺の石の間、流れの淀みに沢山泳いでいた。子供心にメダカは何かの幼虫だと思っていた。夏になりさらに翌年になれば鮒のように大きくなると想像していた。しかしメダカはあくまで小さい魚であった。「春ご」という年の始めの蚕を育てる前だから、5月ごろだろうか。そこに父の姿が無かったのは銀行員で勤めていたからだ。桑畑が多かったのを見れば代々蚕を飼うことに力が入っていたのが分かる。かつてNHKテレビで「繭一ついつくしむまち」とこの地富岡の町を紹介していたがこの土地の風情をよくあらわしているなと思っていた。生業の養蚕、対する自然の代表メダカである。

 最近「藤沢メダカの学校をつくる会」を知った。藤沢市では毎年、小中学校の総合科学展が行われている。今年も湘南台科学文化センターで行われていた。見ると水系等の研究が目についたが、コーナーを歩いてゆくと「メダカの展示」があり、かわいいメダカに再会した。特に興味を引いたのが「メダカ各種の棲息分布」の図表である。地図は東アジアから東南アジアのものであり、日本を北限として西はインド南はインドネシアが目立つ色で塗ってある。何だろうとそばにおられた渡部先生に聞いてみると、メダカの生息地は稲作地と重なっているという。何とコメ作りとメダカの生息地はよく相関していたのだ。知っている人には普通の知識、知らない私にとっては目から鱗である。(写真のメダカ各種の棲息分布は岩松鷹司著「メダカ学全書」より参照)

 このことから急にメダカに関心を持つた。今問題になっている食糧問題その中心にコメがある。そのメダカは稲作の地にいた。渡部かほり先生にたて続けに質問したが、的確に答えが返ってくる。渡部先生はこの会の会長であった。会長から資料を頂いた。その中の一つ「メダカを川に戻したい」を読むと今までの流れや苦労がよくわかる。

 《メダカがいなくなったことに心を痛め、探し求めていた人がいた。神奈川県水産総合研究所内水面試験場の場長(当時)だった藤沢市在住の城条義興さんは、家の池や水槽でメダカを飼っている人達を訪ね歩いた。しかし観賞用のヒメダカなどと一緒に飼われていたため、藤沢固有の野生メダカとは言えなくなっていた。そんな繰り返しのなかで、二か月後にたどりついたのが池田正博さん方の庭池だった。95年夏のことだ。

 今から44年前、正博さんの亡父と長男が近くの通称・蓮池(境川の河跡湖)でメダカをすくってきて庭の池に放した。(中略)「自然のままの池」にしておいたおかげで、メダカは1000匹ほどに増えた。東京大学にDNA鑑定を依頼したところ、このメダカは境川水系に古くから生息してきた在来型であると推測され、「藤沢メダカ」と名づけられた。藤沢メダカの発見は、その保護と増殖、理科教育、環境教育などへの活用へ向けての運動にすぐに結びついた。》

その後世界各国で動物実験としての日本産のメダカの活用が見られ、〈MEDAKA〉は世界語になった。 向井千秋さんは宇宙衛星でメダカの実験をされたことは有名である。メダカクイズがある。20問の後に、宇宙旅行スペースシャトルで向井さんと宇宙旅行に行ったメダカは地球に帰ってからどうしたと思いますか。答え ①すぐに普通に生活した。②3日ほど水面ばかり泳いでいた。③3日ほどえさのとき以外は底に沈んでばかりいた。④3日ほどは姿勢が保てずによろよろ泳いだ。・・・答えは③ (神奈川県立教育センター生物資料)

 メダカは土地に根を張って、そこで進化してきた。藤沢メダカを再発見し、飼育と保全を通して生命の大切さを実感し、環境も見つめなおしてきた。その姿は尊い。中小企業も深く観察し、価値作りを図り、共に生き目標を達成する姿と重なり合ってくる。メダカは実にかわいい存在だ。短時間だがなんとなく心なごむものを感じながら帰ってきた。

                     松井義近

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2008年11月 9日 (日)

何故人気があるのか源氏物語

Dsc01746 (民族舞曲サンバ、平安の生活と比べた)

(文弱を楽しむ)

 新聞の案内をみて源氏物語―あこがれの王朝ロマン―を横浜美術館へ見に行った。開催日程の最後の方であり連休のせいもあったが予想外に混んでいた。「源氏物語」については戦争中の学校なので国語の教科書に出て来ない。歴史書を見てもその当時の解説は「奢侈(シャシ)文弱」という批判であった。当時中学校(旧制)の国語の先生は新井先生である。卒業生には愛称の「鯉さん」と言わないと通じない。古い先生で私の叔父の時からである。上を向いて口をあけて考えるしぐさがピッタリからといわれる。文法の時間「動詞の活用、カ行変革活用」になり「来ない・来ます・来る・来るとき・来れば・来い(鯉)」になると文法もめちゃくちゃになり生徒の方も苦労する。この先生が終戦後定年になり、暫くして社会がおさまると、婦人方を集めて源氏物語の講義をされている。独学で中学の先生になり辞書を丸暗記されたという方である。あの先生がいつ源氏の講釈をやる気分になったのだろうと評判であった。やはり読んで楽しいものは楽しいのである。

(源氏誕生と藤壺)

 瀬戸内寂聴先生の「源氏物語の男君たち」をTVで見ていても、宮中奥御殿の恋愛物語で、源氏の桐壷帝(架空の帝)と桐壷更衣の間に光輝く美しい皇子光源氏が生まれる。しかし、桐壷更衣はほかのねたみを受け心労ひどく世を去ってしまう。寂しい帝は藤壺中宮(15歳)を入内させたが、源氏の目には亡き母にそっくりである。源氏は藤壺中宮に母のイメージと理想の女性像を抱き、許されぬ初恋に身を焦がした。物語の中でこれが後に大きな問題である源氏の子を宿し生むのである。源氏物語は人々に自分の出来なかったことを長編物語に置き換えて楽しみ、心をドキドキさせるのであろう。

(朧月夜と源氏の逆境)

 セクシーで魅力的な朧月夜は敵対関係にある右大臣の娘である。源氏はしのびあい密通を重ねる。ある大雨の日、娘の様子を見にきた右大臣に見つかる。右大臣は謀反を企てていると源氏を追放した。源氏は都落ちし須磨へ行く。これは自分の思うようにならない逆境の場面である。しかしその後明石へと移らざるを得ず、この地で明石入道の娘明石の君と出会い、2年半後に許されて都に帰る。都に帰って暫くたち冷泉帝が即位した。冷泉帝は源氏と藤壺中宮の子であるが、桐壷帝は「知るや知らずや?」になっている。しかし、源氏は官位も上がり太政大臣になる。

(千年の歴史と絵巻)

 恋愛物語は限りなく続く。時の権力者はこの物語を紫式部に作らせ、帝に献上し帝の関心を高めたともいう。今年は道長が帝に献上して1000年になる。この5日NHKハイビジョンで「源氏物語・千年の旅、2500枚の源氏絵の謎」が放映された。平安後期には物語に絵が描かれるようになり、絵巻物が出来上がる。源氏絵はみやび・はなやかで恋の場面が多い。女性は御簾のなかで、出会いも奥ゆかしさがある。最近54帖の物語と絵のすべてがハーバード大学で見つかった。その絵の人物は太く勢いがある。マコーミック準教授の説明で、この絵は室町時代に、山口市にいた大内左京大夫が中央への権力を狙い、自分の力の強さを示そうとして作らせたものであるという。また織田信長は上杉謙信に源氏物語の屏風を贈り、自分がいち早く京に上った立場を誇示した。最も数の多い黄金の源氏絵巻は、その多くが江戸時代に作られたものである。物語の内容は変わらないが、時代により絵は変わる。今は源氏物語も漫画本になっている。コミックで見るのも楽しいのではないかと思う。       松井義近

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2008年11月 2日 (日)

舌きり雀と仏の物差し

Dsc01762(遊行寺、藤沢敵味方供養塔)

 富岡の町から軽井沢や碓氷峠へ行くときは磯辺の町経由で行くのが普通である。磯辺は鉱泉が出る。今は磯辺温泉というから暖かい湯が出るのかと思ったが、あまり変化はないようだ。鉱泉は炭酸を含んでいる。最近群馬の名物になっている「おやき」がある。子供のころ作って食べていた「おやき」は、うどん粉に味噌を入れて練っていた。これをかまどの上のフライパンで焼き、表が焼けるとかまどの中に入れ灰をかぶせて蒸す。前の戦時中から戦後にかけて物資が不足していた。この鉱泉を入れて焼き、少しでも柔らかくなるように鉱泉を汲んできて「おやき」を焼いて食べていた。

 磯辺温泉に「雀のお宿」を看板にしているホテルがある。この土地に舌切り雀の童話が伝わっている。おじいさんが山に薪を取りに行った。お昼を食べたあと子雀が落ちたご飯粒を食べている。おじいさんはこの迷子になった子雀を家に連れて帰り、毎日可愛がっていた。ある日遠い山に行った。おばあさんは子雀になにもあげない。子雀は腹が空いて洗濯ものに使う糊を食べてしまった。おばあさんは怒って雀の舌を切ってしまった。雀は泣きながら山へ飛んで行った。帰ってきたおじいさんは雀がいなくてビックリ、翌日雀のお宿を探しに行った。村の人に教えてもらい苦労してやっと雀のお宿を探した。雀たちは大喜びで歓待した。

 このあとおじいさんはお土産に大小二つあるつづらの小さい方を選んで家に帰ってきた。このつづらには宝物が入っていた。おばあさんは大きいつづらがほしくなって、無理やり村人に教わって雀のお宿に行った。そして大きいつづらをもらって帰った。途中で重くなり我慢できなくなって道端に腰を下ろすと、蓋があいて化け物がぞろぞろ出てきた。

 この話は1015日遊行寺で行われた講演会で、「ひろさちや先生」が講話の冒頭で話された童話です。先生は東大大学院でインド哲学を専攻された。みんなが知っているお話で簡単に話されたが、ここから先生の質問が出てきた。おじいさんが貰った小さいつづらは宝物が入っていたが、大きい方は何が入っていたのだろうか。おばあさんは大きい方を選んで持ってきたがこれは化け物が出てきた。小さい方は宝物が入っていたのだろうか。みんなそうだろうと答える。ところでおじいさんは雀を助けてくれた人だから大きい方を選んでも宝が入っていたのではないか。おばあさんは欲張りだから懲らしめるために小さい方も化け物が入っていたのではないか。みんなそれもあるかもしれないとうなづく。先生は3番目にみんな宝物が入っていたのではないかといわれる。参加者は怪訝な顔で先生の顔を見る。みんな宝物が入っていたのだけれどババは欲が深かったからもっといいものを期待して、それがガラクタに見えてしまったのではないか。この3番目の考えが仏さまの物差しですと。娑婆の物差しでは幸せにならない。すべて“そのまんま”の姿で楽しめと。

 続いて先生は研究者による昆虫の観察結果を話す。蜂などはよく働く者は全体の2で、普通のものが6、怠けものが2になっている。ところで上の2がいなくなって見ると集団はやはり262の割合になるという。話は飛ぶが、ならば今の“そのまんま”で過ごせばいい。聞いていて私はABC分析を思い出した。経営では20%のものから80%の結果が生まれる。約20%の商品で全売上げの80%を占めるのである。売上を顧客別にみても同様である。従って20%に力と時間をかけて重点管理をすれば効率的である。企業は常に改革を進めねば後れを取る。だから時代に遅れないようにしようと頑張る。けれど慾をかき過ぎると、今の米国発サブプライムローンから発した金融問題のように、世界が金融危機の渦中に巻き込まれてしまう。金儲けもいいけれど度が過ぎたら結果は道を外れる。不信感に覆われたら世の中は生きる希望もなくなる。

                        松井義近

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