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2008年5月25日 (日)

逞しく生きる、フード対策他

Dsc01311 (潮干狩り)

 暫くぶりにそば屋に行った。好きなそばを註文したが約10%値上げになっている。日本の小麦は約9割を輸入にしていて、この1年間でほぼ2倍に価格が上がった。こうした関係で店頭の価格も上がったものであろう。飲食店としては値段をあげたくはないと思っているはずである。お客の反応がすぐ出てくるからである。日本の国としては水田が270万haある。主食用のコメ需要はその6割程度で足りる。高い小麦の代わりにコメを代用しようと思うのは当然である。(日経08.04.27朝刊参考)主食用のコメより多量に実る種類のコメをつくり、味は劣るので飼料やその他製品に使うことになる。戦前も戦後の食糧難の時代もコメを粉にひき、団子にしたり、繭玉を作ったりしたが、戦前には自転車で売りにきた「玄米パンのほやほや」などを思い出す。これだけでは昔のままだ。料理を作る人も、経営コンサルタントも新用途の創造に努力せねばならないと思う。

 経済が停滞してくると、小売業等の需要も大きくはならない。売り上げも全体的には前年比大きく伸びることが難しくなる。大型店を作り規模の経済を図っても投資の回収が困難になる。消費の低迷傾向を受け、小売業も飲食業も小型店化して耐え抜かねばならない。このような時の対策をどう考えるか。ひとつにはショッピングセンター等のフードコート(その施設の軽飲食店を集めた区画)に入りセンターの力で集めた顧客に、ファーストチョイスの商品で戦い抜くことがある。もう一つは一般商店街にしても、ショッピングセンター等集合商業施設でも、かねて述べているように品揃えの「生活テーマ別専業化」を図り、顧客の便利さを果たすとともに、時代に即した体制を真剣に考えねばならない。もちろんサービス等を含めた情緒面と付加価値作りも忘れてはならないことである。

 二輪車を含む車の保有台数は今年2月まで三か月連続で前年比マイナスであるという。(日経08.05.22朝刊、春秋)景気は後退したままであり、特に中小企業は輸出による好景気の波にも乗れず苦しんできた。一方若者は以前より物を買わないという。ゴールデンウイークに横浜の八景島へ行った。駅を降りて海岸の見える道を歩いていると「横浜海の公園」がある。潮干狩りでアサリなどを採っている。人工の砂浜と聞くが大潮関係もあり、新聞には5万人の人出とある。砂浜は貝より人の方が多いのではないかと思った。かねてゴールデンウィークの不満は“混雑”であるが、そんなことは関係ない若い家族連れの楽しみの方向・姿がそこにある。

 今各国は原油高騰で悩んでいる。第1次オイルショックのときは1バーレル30ドルで日本中が大騒ぎした。今いくらか、130ドルである。まともな経済ではない。投機資金が自分の金儲けで値上がりしているとしか思えない。余剰マネーは原油・穀物などになだれ込んでいる。日経08.05.17朝刊大機小機で三角氏は述べている。「ギャンブルの場にするな」と題し「今、世界の金融界に必要なのは、工学ではなく、哲学である。(略)実物経済成長の基本は銭の単位で原価を低減し、社会を豊かにする技術やサービスを競う地道な価値創造にある。(略)」と。有限の物の世界で無限の富を追求すれば反動がある。今私たちは近代的管理により顧客の信頼に応えるしかないのか。   松井義近

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2008年5月18日 (日)

心を語る

Dsc01325 (白い花)

脳外科の専門医松本氏の話を聞く機会を得た。脳の話から始まり大きく脳梗塞と脳出血と二つあると極めて体系的に話す。病気について素人の私など自分が苦しんだ関係のことは分かるが断片的な知識である。同氏は同期生だから齢も同じくらいであり、臨床歴が多く、私たちが問題としていることも分かっているし、聞くほうの関心も高く皆の目が違う。熱心だ。そんな中でいわゆる認知症(痴呆)の問題となると、物忘れの自覚症状が皆あるから一層真剣である。然し単なる物忘れは加齢によるものであり、病気ではないといわれ半分は安心した顔である。アルツハイマーもその原因が血管性のものもあるし、脳の一部が委縮するもの、その他アルコール・鬱等原因がいろいろある。薬は進行を遅らせるものである。

 腫瘍の問題等話は多岐にわたっていたが、最後は「老い」について語る。どうすべきか6項目挙げていた。①身体機能の衰えを認める。②感性を磨く。③家庭の団らんにつとめ、役割を自覚する。④趣味を深め知識欲を持つ。⑤豊かな交友関係の維持。⑥身だしなみに注意である。みんななるほどと思う。なかでも「感性を磨く」はかねて私の関心が高く、彼は驚きも必要という。私自身は小売飲食サービス業等において、事業強化プログラム2編の第1に「情緒的顧客満足」を掲げて、お客様の感激・感動等を大切にしてきたが、医学的に見ても同様な考えを明らかにされ極めて意を強くした。(文責:松井)

 家に帰って来て探し物をしていた。そのうちにいつも見ている「その時歴史が動いた」が始まっていて、暫くして家内が呼んでくれた。あわててTVの前に行く。「日本人の心を守れ、岡倉天心・廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)からの復興」である。岡倉天心は明治の初め文明開化一点張りの中で、仏像等日本の美、美しさを残さねばと苦労をする。これは単なる物ではなく、心の問題、人々の信仰であると、保存の努力を始める。私自身「事業強化プログラムーいかに業態を構築するかー」という支援内容を作っているが、最近何かしらひっかかりを感じていた。TVを見ながらフト感じた言葉がある。「心を語れ」である。そしてTVの最後に出てきた言葉を付け加えた。「ただの物体ではない」。この物体は仏像を指している。

 先日親戚の娘さんが亡くなった。ガンの病で52歳だ。お通夜にお坊さんの話があった。今日の式は逆縁ですと。お坊さん自身も娘さんの子供のころを知っていた。何年振りかで祭壇に飾られた写真を見るにつけても、本人も親もどんなに悲しい思いかを察している。かつて娘さんをお嫁にやった友人に「おめでとうございます」と挨拶したら、親の本心は少しもおめでたい気持ではないと教えてくれた。こういう気持は娘を実際に嫁がせた人でないと分からない。ましてや子供に先立たれた親の気持ちは察するにあまりがある。御会葬御礼に他と変わっているものが入っていた。亡くなった娘さんのことが幼いころから今日まで書いてある。本人は自分の財産はお友達だと言っている。葬儀もお友達でいっぱいである。悲しい父親は可愛かった娘さんのことを思っており、つらいことだが、子供が大事にしてきた学校友達には子供をいつまでも忘れないでほしかったに違いがない。辛いつらい日のせめてもの娘に対する願いであったのではないか。親の気持ちを考えて悲しい思いであった。

                            松井義近

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2008年5月11日 (日)

冨岡製糸場と絹産業遺産群2

(座繰り・・富岡製糸場資料より)

Dsc01290  もう10年以上前になろうか、NHKの「関東甲信越小さな旅」で富岡市を放映していた。テーマは「繭一つ慈しむまち」であり、繭を作るための桑の木を畑に植えて育て、良い桑の葉を蚕に食べさせる養蚕農家の姿を見ていた。私が子供のころは春蚕()、初秋蚕、晩秋蚕と3回飼っていたように思う。春蚕のときは去年の枝に出来た葉を枝ごと切って蚕にくれる。初秋蚕のときは新しい枝に出来た葉を下から積んで蚕にくれる。晩秋蚕のときはさらに上のほうに出来た桑の葉を摘んできて蚕に与えていた。場所によって4回飼っていたところもあったようだ。お蚕は「はいて」(ふ化)から「あがる」()まで4眠(脱皮)する。その間24時間に関係なく、朝から晩まで桑の葉を食べ続ける。桑の葉を食べている時はザーザーとすごい音がする。その世話を良くしないと蚕もいい繭を作らないようだ。

 子供のころ養蚕農家は「外れ」(よくない繭になる)てしまうこともあった。家ではよく「あたる」と聞き、子供心に何故何時もいい繭を作るのか不思議に思い、蚕を飼っていた祖母に聞いたことがある。いまでもおぼえているのは「お子様に対する愛情だよ」という。何が愛情なのかすぐには理解できなかった。考えてみると蚕が4眠の間は朝から晩まで、ということは夜に人が寝ている時間も桑の葉を食べ、桑を食べ尽くす。蚕は頭の上に葉っぱがないと下の葉はもう食べないから腹を空かしてしまうのである。こういう状態が繰り返されると蚕はいじけていい繭を作らないようだ。祖母の言葉の“お子様”というのは蚕のことである。子供や孫も可愛いが蚕にはそれ以上に愛情を注いでいたのだ。

 明治の初めに近代的製糸工場を富岡市に作ったのも、この地が養蚕が盛んで、良い繭がとれたことがある。また七日市の堰を流れていた綺麗な水が利用できることもあったようだ。さらに製糸場の土地が代官陣屋の場所で、手つかずのまま空いていて利用できたとのことである。私はこの付近を城町というのを疑問に思っていたが、この辺に理由があったのかと思う。

 世界遺産登録をした石見銀山の観光に行った。現地のガイドさんが説明してくれたが銀炭鉱の中は説明の空間が長くなりわからなかった。いろいろ説明を聞いたが、江戸時代銀を輸出し、見返りに絹などを輸入していた。もちろん他の物も輸入していたのである。中学時代の国史教科書には天照大神が冒頭に出てきて、耕作・養蚕・機織り・などを人民に教えてくれたと書いてあった。これは古事記からの記述であり、とやかく言うつもりはない。しかしそのような昔から養蚕が盛んであったけれど絹製品は輸入しなければならないとは、機織りのレベルの低さを表すものと改めて明治の初めを考えてしまった。

(碓氷めがね橋)

Dsc01302

 午後は妙義山の表山・裏山を左に見ながら、碓氷峠へと向かった。碓氷峠に鉄道を敷けば繭の産地である長野県・群馬県・埼玉県の物流が大きくよくなることは理解できる。しかし此処は急坂である。いろいろ研究した結果、千分の6あまりの傾斜をアブト式で通すことになったのはよく知られている。今は新幹線でアッという間に通過できるが、めがね橋等当時の施設の美しさと周りの山々の景色にスッカリ見とれてしまった。緑の山には白い山桜が咲いている。めがね橋は国道側から見るのが美しい。意識的に煉瓦の組み方が変えてあるという。よくあの当時ここまで気をつけて作ったものだと感心してしまった。

 養蚕が盛んになれば蚕種製造農家もできる。春蚕だけの時代から年3回以上の養蚕が可能になったのに、蚕種貯蔵施設ができたことがある。当時は天然の「荒船風穴」である。貯蔵能力100万枚を超える国内最大の保存施設であったという。この蚕種紙は下仁田までは上野(コウズケ)鉄道によって運ばれた。今は上信電気鉄道となっているが、明治の産業振興、生糸の生産向上に作られたものであった。蚕のことであるが“良いお子様をつくる”コツは今も共通のようだが、産業のスピードは上がるばかりである。 

                      松井義近

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2008年5月 4日 (日)

富岡製糸場と絹産業遺産群1

Dsc01275

(「まぶし」と繭)

 富岡製糸場等が世界遺産暫定リストに載ったことは聞いていた。自分の故郷であるから登録されればいいなと思っていたが最近は田舎に行く機会もめっきり減り、今回この遺産群に行き勉強する機会に恵まれた。朝早く新宿を出発して早々についたのが甘楽(カンラ)町の小幡(オバタ)である。この町には親戚があり、親の代理で年賀の挨拶に行ったことがある。行った先の家は大きい、大きいということは蚕を飼うための場所が大きいのであって、住む場所はその一部分である。このように家がだだっ広いのが養蚕地帯の農家である。蚕を飼う作業場が2階全体にあり蚕が大きくなると1階まで蚕が占める。小幡の町へ行き鮮明に覚えていたのは道の真ん中に堰があり奇麗な水が流れていることだった。この堰は家事にも使うが養蚕用の器具を洗うのにも使ったに相違ない。私の生家では鏑川まで行って洗っていた。

 ここに「甘楽社小幡組倉庫」がある。子供のころ郷土富岡の民謡ができた。「響くサイレン富岡製糸、糸の日本に最初の工場よ、競う甘楽社生糸で誇り、・・・」と歌っていた甘楽社の倉庫がここに残っていた。甘楽社の製糸工場は上信線富岡駅の北側にあり、協同組合の先駆的なものと言われていた。見学先の倉庫では案内のガイドさんはわざわざ“はきたて”(卵からかえったばかりの幼虫)の蚕を展示してくれ、みんな興味深々で喜んでくれた。昔、蚕のはきたての頃は温かい部屋を作って育てていたので、展示の蚕がかわいそうな気持であった。

 この土地は室町時代小幡氏が治めていた。江戸時代織田信長の次男信雄が二万石で移り七代続いたといわれる。途中で松平家に移ったとのこと。すぐとなりの町のことでも今まで知らなかった。この地の伝統ある養蚕農家も今は3軒しかやっていないとのこと。養蚕農家は輸入絹の安さに対抗できないし、他産業への転出が続いた。

 富岡市にある日本最初の官営製糸場・富岡製糸場へ行く。この工場は正面の門から東繭倉庫が見える。よく前を通り、中をのぞいていたが中に入ったことはない。今回初めてここから工場に入った。しかし初めて入った感覚はない。小学校の5年のころ、ここの工場長の息子がクラスにはいってきた。以後中学の初めまで一緒にキャッチボールをしていた。工場の北に専用の門があり大きな声で呼べば友達が潜り戸をあけて中に入れてくれる。広い場所でキャッチボールをして遊んでいたのである。しかし繰糸場の方には行ったことがない。今回初めて中の見学をすることができた。観光バスをどこで下すかと思っていたら少し離れた所にある上町(カミマチ)の通りである。バスの駐車場は別に作ってあるようだ。観光客が増えれば飲食店などすぐに売り上げが増えるであろうが、市も対応に忙しいと思う。

 この工場は明治5年10月に操業を始めた。文明開化・殖産興業で近代産業の育成を図ったことは分かる。しかし準備して操業を始めるまでずいぶん早い。ガイドさんがおおよそのことを話してくれる。世界の生糸の大輸出国である清国がアヘン戦争で生糸の輸出が激減した。ヨーロッパでは蚕の伝染病で蚕が死に、生糸も蚕種も極端に不足していた。そんな中で開港間もない日本の蚕糸類の需要が高まった。ところが当時それらの粗製や偽造あるいは良しからぬ商人の横行等目に余るものがあり、不信を買ってしまった。これは最近の餃子中毒事件を考えれば、早急の対応が必要であったことが分かる。品質の高い安心して買える生糸類を輸出せねばならない状態であり、富岡を選定し品質の高い生糸を作る工場を造ることとなった。

 造られた東の繭倉庫は長さが104.4m、幅12.3m、高さ14.8mある木骨レンガ造である。柱は30.3cm角の通し柱であるが、太い柱は妙義山の官林の木を切ったほか、中之条奥地の木を切り出し筏に組んで流して運んだとのことである。よくこれだけのものがあったと感心してしまう。そのほかレンガ、漆喰、屋根瓦、礎石等よくやったと思う。それにしてもなぜこんなに大きい倉庫が必要だったのか。当時明治の養蚕は年1回の春蚕(はるご)だけだったという。工場の操業には1年分の繭を買い入れねばならなかったのである。

 工女の募集にも苦労があった。フランス人が工女の生き血を取るというデマが飛び、なかなか応募する人がいなかったとのことである。近代的製糸技術を工女が覚え、全国に普及するために全国から集めた。特に士族の娘が多かった。繰糸工場は300台の釜があり、一人一台の仕事である。この人たちが各地に帰り指導的役目を果たした。官営製糸場の経営も官営~三井製糸~原製糸~片倉工業と推移し、20年前に操業を中止するころは一人で30台の器械を担当していたとのことである。この歴史を見ても操業開始当時の外部環境、困難を極めた開業の苦心、製品の品質管理、人材育成、労働生産性の問題、生産のグローバル化とあらゆる問題を考え実施せねばならない姿がここにもあった。

                          松井義近

Dsc01283(富岡製糸場正面)

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