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2008年4月27日 (日)

進化、セル生産、理(すじ)

Dsc00866 (新渡戸稲造胸像)

 合宿の講座を3人の講師で担当していた時である。寝る部屋は親しくしていたS氏と一緒であった。彼は横になるなり眠りだし大きないびきをかく。体重はトン単位と言われる人だからいびきもすさまじい。本人は気にして、普段泊まる旅館では別の部屋になっていたが、今回は同部屋。いびきに影響されて眠れない。ところが眠っている彼が突然息が止まるではないか。このまま息が止まるのかと心配してしばらく様子を見ていると、何と呼吸が戻る。結局一晩中そんなことを繰り返していた。

 先日4月13日、NHKスペシヤル「病の起源」を見ていた。あなたのいびきが死を招く、危険な睡眠時無呼吸症で樹木希林さんが担当。昔の人体の担当のときを思い出す人である。今回、人類の起源は約600万年前と言われる。少し前に500万年前と出ていたのが、もうその100万年も前まで実績が研究されたのかと、このみちを知らない私は驚く。その後の長い石器時代の石器、田舎へ行けば石器は簡単に見ることができた。そして美しくもない石とあまり興味も引かなかった。ところがこの石が現代の私たちに大きな影響を与えていたという。その石器を利用してものを刻んだり柔らかくして食べていたのが影響し、顎が発達しなかった。舌は丸くならないで口の後ろにそれる。これが無呼吸症候を起こすという。

 たかが石という道具が人類にこんなにも影響があると知りビックリである。そんなことを考えながら裏庭に出た。南天が群がって生えている。この南天は昔正月の飾りものの鉢を買ってきたもの。正月を過ぎても元気だったので、地に下ろしたものである。鉢の南天がこんなに大きくなり増えたのは大地で育ったからであろう。期間は短いが、その木も育つ環境により変化する。

 身にしみながら見たのがもう一つある。NHKTV第一の「プロフェショナル仕事の流儀」で、山田日登志氏の「よみがえれ赤字工場、これが伝説の再建屋だ、やる気を引き出す秘策」である。山田氏は大野耐一氏に入門したという。この方式は、今までの流れ作業でない生産方式で生産性をあげた。数年前トヨタの工場を見学する機会があった。車は流していたが数台ずつ流す小ロットであった。これなら受注生産に近いやり方と思った。TVで出てきたのは一人で仕上げる「セル生産」方式である。数人で担当し、多工程をやり、自分で考え改善する。人間は自分が向上することに生き甲斐があり、内部組織的にやる気もでる。もちろん仕事を改善し生産性をあげる苦労は尽きないが、喜びは生まれる。

 小売業の場合は、一般的に売り場面積は小さい。しかしやり方は考えられる。利便性からいえば大きい店舗の方が必要な商品を幅広く揃えやすい。そして電気代も広告費も経済的になる。しかし一般商店も品揃えは生活者の生活をテーマ別に絞れば顧客ニーズに合わせられる。さらにもっとも顧客が望む親しみや人のぬくもりというような点で差異が着けられる。もともと多面的な仕事を行い顧客の満足を図るのが第一線の小売業である。理(すじ)は同じものを感ずるのである。

                                松井義近

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2008年4月20日 (日)

熱気あるバレーボール

Dsc01261 (選手紹介) 

藤沢市の文化体育館で、V・チャレンジマッチを見ることができた。女子・男子プレミアリーグの下位チームとチャレンジリーグ上位の入れ替え戦である。4試合あったが時間の都合で全部見ることは出来なかった。スポーツと言えば若いころはもっぱら剣道で、バレーボールの経験はない。この競技で鮮烈に記憶に残っているのは東京オリンピック最後に行われた鬼の大松監督率いる女子バレー優勝戦の試合である。東洋の魔女たちと言われた人たちの試合に息をのんでみていた。魔女たちの拾って拾って拾いまくった姿が鮮烈に頭に残っている。その後バレーの競技も進化した。南氏が考案したといわれるクイック攻撃などがあるが、その南氏の息子さんが「大分三好」のチームにいるではないか。背も大きいのでよく目立つ。ご招待席の良いところで見ることができ目の前の躍動する体がみな凄い。

 「大分三好」と「FC東京」の練習が始まる。私たちの席までボールが飛んでくる。手にとって返そうとボールに触ると結構固い。そんなことを言うとみなさんに笑われるが、サッカーボールよりは滑らかか。選手がボールを打ち込むと火花が出るようなものを感じる。見る場所のせいか今までに感じない迫力がある。試合が始まると大分チームの監督は立ったり座ったり忙しい。チームが点を取ると手をたたいて喜ぶ。競技を冷静に見ている監督もいるが、この監督は一喜一憂しながら選手と一体でやっている感じである。一部リーグに上がれるかどうか、一方は残れるかの試合であり、両者とも熱が入っている。隣の席に大分から一緒に来たと思われる人がいる。黄色い声で大きな声援を飛ばす。「マイブロック一本」、声もタイミングも見事だ。背番号10番の選手はブロックもうまい。ポイントゲッターだ。選手たちはサーブを受ける前に合図を交わし、どう攻める相談しているが中々計画どおりにはいかない。平坦に攻めず、もっと攻撃に変化を持たせたらと思うが、実際は思ったようには運ばぬようだ。

 バレーは点から線へ、線から立体的に動かすという。これは自分でやってみないと理解できない。しかしまず個人が力を持たねばならないが、チームプレイはそれ以上に連携がうまくゆかねば個人の力も発揮できないし、勝てないと思う。考え方は組織論で分かる。経営的には「抑圧を解放するものは売れる」。脳の古い皮質に感ずるものがあるといわれ、

そこに楽しみがある。大分からチームと一緒に来た応援の女性は、一部リーグ入りを果たしチームと共に喜んだ。まさに心を開放して帰ったに相違ない。

                             松井義近

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2008年4月13日 (日)

自然の「ゆらぎ」のこだわり

Dsc01256_2          (外孫からのチューリップ)

前週の最後に次のように書いた。扇風機の風も自然の風に近いものに「ゆらぎ」の快適性がある。・・個々の店は多様な生活・ライフスタイルの一つを選び生活テーマ別に専業化し、顧客は相互の間に「ゆらぎ」を感じ・・(略)であった。今回は最近の出来事をこの視点で眺めてみる。

長い間室内に置いた観音竹は葉の色が悪くなる。温かくなって鉢を外へ出してみると根が下から出ているではないか。随分経つので土を取り換えねばと思う。苦労して鉢から出したら根っこでいっぱい、土も見えない。観音竹鉢植えは植木にとって不自然である。もっと自然が感じられるように手をかけ、自然のゆらぎが感じられるように育てたい。

近くの幼稚園の先生が定年退職した。そして子供から元気をもらっていたと言われる。確かにそうだ。家は孫達と2世帯住宅で暮らしている。私たち夫婦が友達と会って話をするとき、自然に「おじいちゃん」「おばあちゃん」といっている。友達は「あなた」「私」である。もう少し若い時は流石におばあちゃんと言われると抵抗を感じた家内も、最近は「家は何でも孫が中心の生活をしている」と主張する。世代間にはそれぞれにない固有のものがある。そこには理くつでない自然に近い快適性がある。

4月10日の日経朝刊にセブン&アイ・ホールディングス傘下のデニーズの記事が出ていた。2割強にあたる約130店を閉鎖する方針だという。デニーズについては関心をもって見ていた。祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きありと平家物語に出ていたが、諸行:全てのもの、無常:常なしで移り変わる、と教えられてきた。一般に腹が減ったら食べる店が多い。このタイプの店は競争が激しく売上げが減少しがちであることは折に触れて述べてきた。一般論であるがファミリーレストランも最初は自分の家より楽しくって料理もおいしい店であった。最近は行っても楽しさを感ずる店ではない。店内・味・サービスに大きく資金を掛けなくても、何か違った「ゆらぎ」を作り変化のある所にすれば、そこには快さがでると思う。

日経4月9日朝刊「やさしい経済学―21世紀と文明」奥野卓司氏記事を読んだ。「パソコン、携帯電話自体は工業製品だから、それが行き渡ったというだけでは工業社会の延長にすぎない。」という。まさに我が意を得たりである。最後の方に「過剰な生産が社会的意味を喪失した時に、その社会は必ず情報社会と化す」とある。金がすべての社会は行きづまると思う。物も機能から生活等の機能を売ることが大切であり、さらに生活や心が豊かになるもの「文化」的なものへと進みたい。私たちが住む社会は、小さくとも意味ある存在として働き、自然の摂理に従った文化の香りのするコミュニティ(協働体)にこそ意味がある。

                   松井義近

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2008年4月 6日 (日)

桜と「ゆらぎ」

Dsc01249  (三島大社)

今年の桜は何時もより少し早めに咲きだした。近くの小学校の桜も3月末には開花した。孫の一人は既に中学生、それでも小学校入学のとき桜が咲いていた思い出があるようだ。今年の入学生も入学式まで桜の花が咲いているといいと言う。楽しい思い出は他の人にも味わってほしいと思うようだ。私の時も小学校入学のときは桜が咲いていた。2本の桜の木の間を歩いて教室に行ったことを覚えている。その木は今は校舎の新築で無くなっている。中学に入ったときの校庭の桜は一層素晴らしかった。こんな桜の花を見ながら、新学期に心を新たにしながら励んで来た。

 日本人は桜の花が好きなようである。数年前も京都御所一般公開の見学をかねて吉野山の桜を見に行った。10日過ぎだから少し遅いなと思いながらも、吉野山は奥もあり、下の方までそれぞれ千本桜があると聞くから、下が駄目なら上があるだろうと勝手に思って行った。しかし花は全て散った後だった。その後高遠の桜を見に行った時も、花が咲いていた後の香だけは残っていたが花はなかった。満開の桜には巡り合わず、桜の見物は近くで楽しむだけかと諦めていた。

 今年は伊豆半島の桜を見に行った。たまたま伊豆高原の3キロ続く桜のトンネルは満開であった。松崎の桜並木1,500本も満開である。塩ずけ桜葉はシェア70%で日本一と資料にのっている。川の堤に咲き誇るこの桜の利用なのかと思う。最後の圧巻は三島大社である。参道の桜、池に垂れ下がる枝垂れ桜は見応えがある。冬の寒さをしのぎ、温かくなるや一挙に咲き誇る何十本・何百本・何千本の桜、一個の花でなく一斉に咲く全体の美しさは見事な景観である。

 一方桜は、散り際の美しさが日本人に愛されるという。これが前の戦争中の特攻隊の人の心にあった。若くして国の守りのために逝った先輩や仲間たち、今思えば「もったいない」考えである。戦争中「桜に錨」の帽子の徽章、「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」で突っ込んだ人たちへの思いはいつも胸にある。戦後あの人たちがおればやるべきことは沢山あった。

話は移るが、もう十数年前フラクタル理論に興味を持った。自然現象は自己相似的であるという。今でも詳しいことは学んでいないが、フラクタルの概念は、1970年代中ごろブノワ・マンデルブロによって命名された幾何学的概念である。この自己相似的なものの中に「ゆらぎ」現象が広範に存在する。いわゆるフラクタルな現象であるという。扇風機の風も自然の風に近いものに「ゆらぎ」の快適性がある。生活や仕事の考えも、とにかく働いて働いて頑張ろうとやってきた日本、何でも皆一緒、同じようにやる考えが浸透した時代である。物質的豊かさが目について「ゆとり」という考えが出た。今は一律的「ゆとり」から生活や仕事の中に快感を味わう「ゆらぎ」の概念を取り入れたい。それぞれが自分のライフスタイルを持つ時代である。商業活動も広くグローバルに目を開き、一律的やり方から多様な業態作りに進むことが大切だと思う。個々の店は多様な生活・ライフスタイルの一つを選び、生活テーマ別に専業化し、顧客は相互の間に「ゆらぎ」を感じ、それを集合化(ショッピングセンター、商店街)すれば人が集まり、繁栄型集合業態になると考えている。         松井義近

      (参照:非線形科学 蔵本由紀著)

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