味わいある国々、山陰
石見の国、出雲の国,伯耆の国、因幡の国にゆく。行き先を1字づつでいえば金・舞・銀・美・砂ということになろうか。まず岡山街道から米子へ行く途中の金持神社、カモチ神社というようだが、漢字で書いてあればカネモチ神社で、みんな喜んでゆく。バスがつくとご婦人が金持神社と書いてある昔の形の提灯を持って出迎えて下さる。この提灯を見て私はお盆のときの迎え盆に行くとき、また送り盆に行くときに、蝋燭をつけて帰ってきた迎え盆、また蝋燭をつけて送って行った送り盆のことを思い出した。その時の提灯と同じような形で古いもので思いがけず出迎えてくれ、何となく心の温まるものを感じた。
一晩泊って行ったのが出雲大社である。四十数年前一度お参りにいったことがある。記憶も定かでない。大国主の尊を祭る大きな社殿、太いしめ縄などが頭に残っている。近年地下から3本たばねた大きな柱が掘り出された。これから推測すると建物の高さは48メートルになるという。この地は津軽海流が流れ、朝鮮半島南の海岸で流したものは出雲半島につくようだ。さらに沖を進んだものは越前の国あたりに漂着する。ということは海上を航行する船の灯台の役目にもなったかといわれる。昇殿して神主の祈りの祝詞に続き、代表が玉串を上げる。太鼓の音がドンドンテクテク、合わせて笛がなりだした。紅白の衣を着た巫女が鈴をチリチリンチリチリンと鳴らしながら神楽を舞う。伝統の神楽に何かしら心を打たれるものがあった。
ガイドの神話も面白い。スサノオノミコトは八岐大蛇を退治し住民を助けた。その大蛇の尾から出てきたのがアメノムラクモノ剣という。また、皮をむかれた因幡の白兎は大黒様の言うとおりきれいな水で身を洗いガマの穂綿にくるまって元の白兎になった。神話ではあるが村人を助け支援したから話が残り伝わったと思う。考古学的話も出る。出雲の国は古墳が多く道路などを作ろうとすると遺跡が出てきて事業が遅れるが、地中から掘り出されるものは銅剣や銅鐸が多いという。一つだけ聞いてみた、鏡はどうでしたかと。これは一つしか出ませんでしたと答える。後はアマテラスオオミカミとスサノオノミコト等との関係を推測するしかないが、心豊かになってくる。
世界遺産に登録された石見銀山、去年の秋は見学者で大混雑だったとのこと。今回はさほどの混雑はなかったが、山から落石があり、シャトルバスは途中の「清水寺前」までであった。銀がとれたこの地は、戦国時代大内義興・義隆と尼子晴久が戦い、銀山は大内氏が本格的に発掘した。途中尼子氏のものとなり、毛利氏は10年近くに及ぶ銀山支配をめぐる争奪戦を経て銀山を支配下におさめた。毛利氏の経済の基盤を支えていた産業である。当時銀鉱石と鉛を高温で溶解し、融点の低い鉛を灰に吸収させ銀を分離した優れた灰吹法が案出され、温泉津での船舶通航施設、銀山の街と共に残された見事な遺産である。
坑を見て、歩きながら下ると右手の山に佐毘売山神社がある。山には石を積んで石垣を作り、作業する人たちの家があったという。坑内で働く人たちは砂埃で肺をやられ30歳くらいで働けなくなったといわれる。小さい子供たちは1日に米2合を与えられ、外の作業をやっていたようだ。マルコポーロの東方見聞録「黄金の国」も来てみれば「銀の国」で、銀の輸出で貴重な品の生糸などを輸入していた。この陰には多くの人たちの犠牲があったことがうかがわれる。今回の旅行のメイン目的先である石見銀山の龍源寺間歩の出口で、記念のスタンプを「事業モデル構築」の表紙に押し、中小企業の発展を期する。
眼前に広がる閑雅な一服の絵画と言われる、庭園日本一の足立美術館に行く。入口から歩き出すと、緩やかな曲線の「苔庭」が目に入る。冬の庭は雪景色かと思ってきたが青々とした庭の苔が見られて緑に見入る。次の庭は山を借景にした「枯山水庭」、雄大である。敷き詰められた白砂は塵一つなく水の流れるような線が奇麗だ。水池の「白砂青松庭」や「池庭」と進む。創設者の足立全泰氏は明治32年安来市生まれ、15歳で木炭商になった。大阪で不動産や繊維を手掛けた実業家である。すぐれた審美眼を持ち、近代日本画を収集した。2階に上がるとその絵画が展示されている。横山大観の絵はかねてみたいと思っていた。それも富士山の絵である。なんとその絵が目の前にあるではないか。「乾坤輝く」は昭和28年の作、大観も成熟した晩年である。山から七筋の光が天に向かって放射、飛ぶ瑞鶴と共に心に迫る。色紙大のものを買い、早速家に飾った。
かつてきたことのある鳥取砂丘で変わったのは駱駝がいたことである。月の砂漠からの連想であろう。しかしここは海が見える砂浜、金と銀との鞍を置いての王子とお姫様とのイメージには遠い。みな海に向かって黙々と歩いていた。
岡山に向かってのバスの中、ガイドさんが小学唱歌を歌う。「天勾践を空しゅうする莫れ、時に范レイ無きにしも非ず」。後醍醐天皇が隠岐の島に流されたとき、児島高徳は、みあとを慕って行ったが院庄(津山市)まで行ってしまった。夜、桜の木にこの詩を書いて志を示した。警備の侍は意味が分からず、天皇はその志を知ったという太平記の物語である。今回のガイドさんは小学唱歌をよく歌ってくれた。「一月一日」「大こくさま」「児島高徳」きれいな声でその場所にぴったりの歌を歌い子供のころの心を思い出したのか心に深くしみ込んだ。有難うガイドさん。 松井義近
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (1)





最近のコメント