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2007年10月28日 (日)

地域に生きる自然

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 藤沢市では毎年夏に花火大会がある。私も過去2回見たが、最近はあまり見ていない。帰りの電車が心配でなかなか行く気になれなかった。今年広報を見ていると協賛金を出すと席を確保することができることが分かった。当日は、それにしても早く行かないとこむからと心配し早めに席に着く。まだ明るい。周りを眺めたり、江の島を見たりして過ごす。そろそろ薄暗くなって花火が始まるかと思っていると、伊豆半島の上に今沈もうとしている夕日が見える。なんときれいなことか。今までも見てきたはずだが、こんなにきれいだと思わなかった。夕日の美しさは宍道湖やあるいはインドネシアのバリ島等各地で美しさを競っている。しかし伊豆の山々に沈む夕日は海を隔てて輝き、沈んでゆく。身近なことは近すぎて、却って気付かないということか。灯台下暗しである。夕日に見とれて感じていると花火が始まり、夏の夜空を満喫した。

土地に住んでいると、地元の良さを感じないでいることが多い。先日「わが住む里」56号(藤沢市総合市民図書館)を番場定孝先生から頂いた。先生寄稿の「幻の鵠沼蘭は生きていた」が載っている。内容をそのまま見ると、「かつて相模湾の長い海岸線は平坦な砂丘がどこまでも続き、鵠沼辻堂を中心とした砂丘と、内陸まで広がる松林は、文字通り名勝湘南の白砂青松と人々の憧憬の地であった。」このような中で先生の県議会への提案があった。「かつての湘南海岸には多くの原生植物がありました。特にハマボウフウ、松露は有名で、今日ではその天然の味覚を全く窺い知ることはできません。地名がそのまま名称になっている鵠沼蘭はその本家本元でも一草たりと見ることができません。」と。「この提案は砂防林や砂丘にかつての原生植物を復活させ、人々の散策と憩いの場所を創ったらどうかというものであった。」

県会議員であった先生は選挙の半年前には後援会用のパンフレットを作る。これに鵠沼蘭を載せれば何か反応があるかもしれないし、環境問題の象徴になると掲載した。選挙も終わって直後『うちにパンフレットと同じ欄があります。毎年4月中旬すぎに白い花をつけます。松露も一緒にあります。』との電話が入った。JRの北の庭園で、松と松の間の雑草地の中に、ここに1本そちらに1本と白い花が見えるではないか。かつての砂丘の名残ではないかと思われた。このような発見は大きな感激を与える。「自然が教える湘南の原点を知ることは大切だ。鵠沼蘭にその象徴として今後もずっと生き続けることを願ってやみません。」憧憬の的の湘南の自然を物語る生きる鵠沼蘭、美しい自然を緑を残したい気持ちである。

先生の言葉を勝手に短くしたことをお許しください。この“幻の鵠沼蘭見つかる”は夢が現実になったような美しい話である。夕日以上の感激を覚える。

                         松井義近

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2007年10月21日 (日)

本能寺の変「地の日天の海」

Dsc00320  日経の夕刊に連載されていた内田康夫氏作「地の日天の海」が9月末で終了した。始め

から読んでいたわけではない。いつの日か読み始め、それ以後は夕刊が来ると真っ先に読むようになった。それだけ関心が強くなった。読み始めて、何で「地の日天の海」というタイトルになったのか、疑問が出てきた。「天の日地の海」なら常識的な並び方になる。10月初め「小説『地の日天の海』連載を終えて」という作者の寄稿が出た。主人公は織田信長でも明智光秀でもなかった。後に徳川家康に仕える僧侶・随風(後の天海)の目を通じてみた小説である。これで「天の海」が何となくわかる。すると「地の日」は日本の国を武力で統一しようとした信長ということになる。いずれも勝手解釈である。

 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と並べれば、NHK大河ドラマでいろいろの見方角度からしばしば登場しているので、私を含めて多くの人が興味を持っている。その中でも本能寺の変で明智光秀はなぜ織田信長を殺したかは、色々の説や見方が出てくる。武田との戦いに勝ち、その祝いの席で自分の功績を自慢し、信長からひどい仕打ちを受けた。お前はどんな働きをしたかと叩き出された。織田信長の性格からみんなを納得させる。また安土での徳川家康の接待で臭い魚を出し、そのために役を免ぜられたという話もあった。その直後のことだけに関心を持たせるが、今回は違う。

 夕刊に掲載された「凶兆(五)」や「天が下知る(九)」などに出てくるものを参考にしながら原因を考えてみる。信長公のあまりにも性急ななされように危ういものを感じた。比叡山の焼き打ちはたれかれ構わず総て殺戮、一向一揆の殲滅に見せた残虐性に恐ろしいものを感じたに相違ない。織田家の重臣的存在の佐久間殿親子への仕置きや、林殿の放逐、これらから、そのうちに自分が左遷されるのではないかという不安に陥らせる。また、光秀は四国の戦略として長曾我部殿と関係強化を図ってきたが、信長公の戦略転換により結果的に長曾我部殿を裏切ることになった。これは秀吉の画策が見え隠れし、秀吉ごときに虚仮(コケ)にされてたまるかという競争心もある。これらを纏めてみれば、《将来に危機感を覚える不安》であろう。

 光秀は帝を中心として営まれる奥ゆかしい日本の古式が信長の暴力的思想で打ち破られてしまうと懸念してきた。禁裏や義昭公への傲慢な扱いは、仁道の則を超えられている。この面では《それぞれ人間は何らかの考えを持っている。その考えを無視されれば反発する。存在感の否定であり人格の否定となる。これは爆発的怒りを発する。》

 「時は今」は「土岐は今」を裏に読んでいるといわれる。秀吉は備中高松城の水攻めの最中である。柴田は越前で上杉軍と対峙している。備後鞆の浦にある義昭公は上洛戦を開始する気でおり、現在の京都は備えがない。まさに時は今と、日ごろのうっ憤をはらしにかかった。考えが自分中心自己利益中心になると、常識やぶれのことをやりだす。国の例でもそうなるようだ。97年7月から98年にかけて、ヘッジファンドの売りでタイの国の金融は回らなくなり、インドネシア・韓国の経済も影響を受け、IMFの支援を仰いだことがある。自分だけ良ければよいという考えはあらゆる面で危機に落とされる。《世の中は利己心だけで動くと危機に落とされる。》いま社会問題になっている子供のいじめ・殺人、大人の子殺し、子の親殺しに何か共通のものあるように思う。       松井義近

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2007年10月14日 (日)

運動会、体も心もノビノビと

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 青い秋空の下で小学校の運動会が始まった。入場行進で校庭に集まると校長先生の話に進んだ。「この青空の下で一生懸命走りまたリズム・競技で、気持ちいい汗をかきましょう。これがみんなの体と心を丈夫にします。今日は大勢の方が見えて皆さんの活躍する姿を見てくれています。しっかり頑張って思い出に残る運動会にしましょう」。そうだ、体を鍛えねばならない。これと一緒に心の健康も大切である。演技が始まると、50m、100m走やダンスと体を丈夫にする演技が進む。一方団体の競技もルールを作り、それに従って進めなければ始まらない。“スーパー二人三脚”などは相手と話し合い、どの足から踏み出すかと決めて、輪を真ん中にして4人がお互いに心をあわせて走らねば直ぐに転んでしまう。車椅子で走る人もいた。体操を一緒にやっている身障者もいた。もちろん先生が付いてみんなと共に進めているのは、思いやりの心の現れの姿である。校歌では「気高き広き心もて,いざや進まん人の道」と歌われていた。

 応援合戦が始まる。今年から赤・黄・緑の3チームである。赤は「輝く太陽のように・・・力いっぱい頑張ろう」。黄色は「黄色い稲妻、光、かみなり・・・元気いっぱい頑張ろう」。緑は「のびゆく若葉のように・・・力いっぱい頑張ろう」と元気いっぱいの姿である。競技はチームにより特質の差があるかと思った。たとえば走るのが早いチーム、パワーを出すのに勝るチーム、ものを正確に投げるチームと、多少差があるのではないかと見ていたが、球入れで緑がトップ、そのセンスで最後までトップを走ったのは一事が万事なのか。校歌では電子オルガンを見事に演奏する児童、体操で台の上にあがった児童、立派なのに感心してみていた。それぞれが自分の特徴を生かしながら、バランスのとれた人間に成長してくれる姿を思い描いた。

 運営上は共同作業・組織的運営が行われる。白線を引く係、放送担当、応援団長、50メートル走等の順位のところは微妙の判断が出るので先生が3人付いてジャッジをする。その子を順位の旗のもとにつれて行く人、みんなスムーズに進行するのは長年の実績が積まれたものであろう。 競技の圧巻は5・6年生の“組み立て体操”であった。次々と展開されてゆく体操の妙技に、自分の若いころを重ね合わせて見入っていた。江の島の波の中の桟橋、その先に高い江の島、演出の美しい感覚と体力のバランスが見事に輝き、喝采をおくる。子供たちも大きな拍手にやりぬいた喜びがあったと思う。

 すがすがしい青空のもと、松も緑の運動場で思いっきり走り遊戯した。子の中には走るのが遅い人もいた。しかし最後まで一生懸命走った。走る姿に周りの応援も応じていた。

このようにみんなが見事にやった運動会である。この運動会を目標に、企画し、暑い中で練習を重ね、当日の準備・実施、そして後片付けと汗を流して来たのではないか。まさに心に残る運動会であった。   

                   松井義近

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2007年10月 7日 (日)

プロ野球、みんな優勝を夢見てきたが

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今年パリーグが始まり暫くたった4月下旬、日本ハムは最下位を低迷していた。主砲の小笠原が巨人に行き、人気の新庄が引退である。得点力の低下からどう見ても当然と思われた。当時のチーム打率は2割3分台に落ちていた。ところが9月29日見事に優勝である。2年連続である。

主力が抜けても優勝、このチームをヒルマン監督はどうしたか。長打力がなければ送りバント、犠打はチーム最多の148である。さらに脚を絡めた攻撃をする。何もしなければ結果は出ない。「とにかく動け」、塁に出たら次の塁を狙え、動いて点を取るのだ。このように常に一歩前への強い意識の積み重ねがあった。最下位からの転機は5月中旬、田中幸が2,000本安打、19日ソフトバンク戦で木下がプロ初勝利である。しかしそんなに点は取れない。少ない点を取ったら守り切る投手陣が要る。甲子園の高校野球で活躍し たダルビッシュが大黒柱に成長した。先発投手の故障も若手が活躍しカバーした。

中小企業でも大黒柱が欠けたりすることはしばしばである。何もしなければ結果は出ない。「とにかく動け」である。そして次の流れの転機を腰を据えて掴もう。

プロ野球は昔親しんだことがある。20年以上前、仕事の合間に球場に電話をかけたら、内野席の切符がありますという。球場にゆくとダフ屋が盛んに声をかけてきたが、球場チケット売場で求め入口の検札を受けて中に入る。ところが野球が始まる直前になって,他の人が来て自分の席だという。今当日券を買って入ってきたのにと思っていると球場の係が来て私の切符は前の日のものだという。「え!」とビックリ、チケット売場でやりあって、結局謝りもしないで渡された他の切符で観覧した。前売りか何かで一度売ったチケットがキャンセルされ、日にちを間違えて入れたのかと思ったが、それ以来プロ野球を見に行かなくなった。こんなことは他の商売でもあると思うが、埋没し客数減になってゆくことがある。

今の時代はTVで楽しめる。セの優勝チーム巨人の今季の戦いは、10月2日(火)の優勝戦に凝縮される。ヤクルトが先取点3を取る。これを巨人が追い3回4回で同点になった。すぐにヤクルトが1点入れ、巨人は追う立場のまま9回裏まで来た。ヒットの小笠原が出て、代走がなんとアウト。今日はこれでおしまいかと頭をよぎる。そのあと李ホアボール、これをなんと二岡がバントで送る。とにかく同点をという原監督である。阿部は敬遠のホアボール、矢野が出て二死満塁、代打清水の高いバウンドのボールをショートがとって一塁に悪送球、二者かえって逆転さよなら。なんというドラマか。風呂から出てこの場面を見ていた孫が飛び上がって喜ぶ。劇的な幕切れである。勝利監督インタビューで原監督は「今年の巨人の野球を象徴していた。最後まで粘り強く、粘り強くと、今年のペナントレースの戦い方が出た」。原監督は高橋由をトップバッターに、上原を抑えにした大きな決断もあった。

事業も何事も「あきらめたらお終いである」。

                       松井義近

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