旧海軍の生き字引、人を導く
東海道線の下りに乗る。昼過ぎの時間は空いていてすぐに座れた。向かい側では私より歳の上の方が一人本を読んでいた。よく本を読めるな、目もいい人かなどと思っていると、相手が顔をあげてこちらを見る。なんと市来分隊監事ではないか。家内と二人で挨拶をして隣に座る。海軍の歴史を深く研究されていたことは知っていたが、最近は分隊監事より上の人は殆ど亡くなられたという。それはそうだ89歳になられている。海軍のことで調べたいことがある人からよく問い合わせが来るという。貴重な存在である。その分隊監事は我々一人ひとりのこともよく知っていて、経営コンサルタントは今も忙しいかなどと聞かれる。正に親父であり兄貴である。ドラッカーの話など、その一言でそうだしっかりやろうと思うこともあった。しかし齢は89歳、耳は少し遠くなってきたが、我々以上に元気でおられる。今日もこれからイ206分隊会に行かれるのである。
太平洋戦争では実戦に従事、ガダルカナル方面に出撃した艦艇は飛行機に攻撃され、被弾し、漸く基地に戻った。一度被弾した艦は再度攻撃されるので、対空機関砲等の要員を除き全員退艦した。残った指揮官は市来大尉であり、死を覚悟した。しかし敵飛行機は来なかった。(イ206,208合同会の講話よる)。その後であろう、私たち兵学校に着任、イ206分隊監事として私たちの分隊を担当されたのである。
私たち分隊会の行事は高齢化により一時中断した。しかし分隊監事がお元気であるということで復活した。この分隊という組織は艦艇の分隊と同じで、戦うための組織である。入校時のスピード体得は起床動作から始まる。1号生徒の号令で全員が1分30秒でできるまで続いた。どのようにしてやればよいか、細かく教えてくれたのは対番になっている2号生徒であった。
今回の分隊会も市来監事のお話から始まった。数少なくなった73期(1号3年生)と74期(2号2年生)の方もおられ、顔は昔の分隊訓育である。話の中心は52期で、今年103歳で亡くなった佃定雄氏の話である。佃氏と高松宮殿下の話は省略するが、高松宮殿下の無二の親友であるという。殿下の赤痢事件で詰め腹を切らされ、人生最初の戦いに挑んだ。東北帝大物理学科全課程の履修である。佃氏は音響工学を専攻し(S6~11年)水中測定兵器の専門家であった。私はこのブログの2006.12.09「終戦」の記事で、終戦時の生徒隊監事の訓示を書いた。その中で戦争に負けた原因の一つに兵器があり、電波探知機、水中測定兵器、飛行機、原子爆弾をあげられた。水中測定兵器で「造船・電機等連絡悪く、自分さえよければ可という考えである。・・・多数の船を失った」と当時の控え通りに述べたが、このような専門家が連携不良で結果を出せず随分悔しい思いをしたであろうと思う。
分隊が縦組織なら普段の勉強は同期で作られる教班という横組織である。死ぬまで続く「貴様と俺とは同期の桜」の交わりである。終戦になり大学で学び、多くの分野で仕事を続けた時代から、現在は殆どが現役を引退している。結果的に同期の交わりが濃くなったように思う。何でも言える仲間である。夕食の最後の話題はこれから直面するであろう「痴呆症」の話になった。治療法が進んでいないだけに深刻である。昔のように「ボケ」も簡単明瞭だが「恍惚の人」の方が感じがいいのではないかという意見で一同笑う。知人にも痴呆症の人がいて現実を知るだけに深刻な問題である。ボケないよう私はブログを続ける。
松井義近
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