冨岡製糸場と絹産業遺産群2
(座繰り・・富岡製糸場資料より)
もう10年以上前になろうか、NHKの「関東甲信越小さな旅」で富岡市を放映していた。テーマは「繭一つ慈しむまち」であり、繭を作るための桑の木を畑に植えて育て、良い桑の葉を蚕に食べさせる養蚕農家の姿を見ていた。私が子供のころは春蚕(ご)、初秋蚕、晩秋蚕と3回飼っていたように思う。春蚕のときは去年の枝に出来た葉を枝ごと切って蚕にくれる。初秋蚕のときは新しい枝に出来た葉を下から積んで蚕にくれる。晩秋蚕のときはさらに上のほうに出来た桑の葉を摘んできて蚕に与えていた。場所によって4回飼っていたところもあったようだ。お蚕は「はいて」(ふ化)から「あがる」(営繭)まで4眠(脱皮)する。その間24時間に関係なく、朝から晩まで桑の葉を食べ続ける。桑の葉を食べている時はザーザーとすごい音がする。その世話を良くしないと蚕もいい繭を作らないようだ。
子供のころ養蚕農家は「外れ」(よくない繭になる)てしまうこともあった。家ではよく「あたる」と聞き、子供心に何故何時もいい繭を作るのか不思議に思い、蚕を飼っていた祖母に聞いたことがある。いまでもおぼえているのは「お子様に対する愛情だよ」という。何が愛情なのかすぐには理解できなかった。考えてみると蚕が4眠の間は朝から晩まで、ということは夜に人が寝ている時間も桑の葉を食べ、桑を食べ尽くす。蚕は頭の上に葉っぱがないと下の葉はもう食べないから腹を空かしてしまうのである。こういう状態が繰り返されると蚕はいじけていい繭を作らないようだ。祖母の言葉の“お子様”というのは蚕のことである。子供や孫も可愛いが蚕にはそれ以上に愛情を注いでいたのだ。
明治の初めに近代的製糸工場を富岡市に作ったのも、この地が養蚕が盛んで、良い繭がとれたことがある。また七日市の堰を流れていた綺麗な水が利用できることもあったようだ。さらに製糸場の土地が代官陣屋の場所で、手つかずのまま空いていて利用できたとのことである。私はこの付近を城町というのを疑問に思っていたが、この辺に理由があったのかと思う。
世界遺産登録をした石見銀山の観光に行った。現地のガイドさんが説明してくれたが銀炭鉱の中は説明の空間が長くなりわからなかった。いろいろ説明を聞いたが、江戸時代銀を輸出し、見返りに絹などを輸入していた。もちろん他の物も輸入していたのである。中学時代の国史教科書には天照大神が冒頭に出てきて、耕作・養蚕・機織り・などを人民に教えてくれたと書いてあった。これは古事記からの記述であり、とやかく言うつもりはない。しかしそのような昔から養蚕が盛んであったけれど絹製品は輸入しなければならないとは、機織りのレベルの低さを表すものと改めて明治の初めを考えてしまった。
午後は妙義山の表山・裏山を左に見ながら、碓氷峠へと向かった。碓氷峠に鉄道を敷けば繭の産地である長野県・群馬県・埼玉県の物流が大きくよくなることは理解できる。しかし此処は急坂である。いろいろ研究した結果、千分の6あまりの傾斜をアブト式で通すことになったのはよく知られている。今は新幹線でアッという間に通過できるが、めがね橋等当時の施設の美しさと周りの山々の景色にスッカリ見とれてしまった。緑の山には白い山桜が咲いている。めがね橋は国道側から見るのが美しい。意識的に煉瓦の組み方が変えてあるという。よくあの当時ここまで気をつけて作ったものだと感心してしまった。
養蚕が盛んになれば蚕種製造農家もできる。春蚕だけの時代から年3回以上の養蚕が可能になったのに、蚕種貯蔵施設ができたことがある。当時は天然の「荒船風穴」である。貯蔵能力100万枚を超える国内最大の保存施設であったという。この蚕種紙は下仁田までは上野(コウズケ)鉄道によって運ばれた。今は上信電気鉄道となっているが、明治の産業振興、生糸の生産向上に作られたものであった。蚕のことであるが“良いお子様をつくる”コツは今も共通のようだが、産業のスピードは上がるばかりである。
松井義近
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